キャラクターの死


読者の感情から学ぶ


 生きているものには必ず死が訪れる。それは動物としての肉体を持った我々は逃れる事のできない事実だ。ただ、死んだとしても周りの人々の心の中で生かされる事もあるだろうが、それもその人が死ねば終わる話だし、どんな有名な人でも人類が滅亡すれば想い起こされる事はなくなる。まぁ、極端な話は置いておいて、肉体を持たぬ「キャラクターの死」とはなんだろうか。
 ちょっと前の話だが「100日後に死ぬワニ」という作品があった。ツイッターで発表されていて、リアルタイムで一日に一枚更新される漫画だ。内容としてはワニの何気ない日常を描いているもので、その何気なさから読者に親近感を持たせようとしていたのだろう。その100日間で感情移入する人はどんどん増えて、大きな話題を呼び、盛り上がりのピークと共にフィナーレを迎えようとしていた。しかし、最後で大きな反感を買うことになる。
 それは最終回と同時にその人気に乗じた商売を始めたからだ。メディアミックスというやつだ。これによって読んでいる人々の感情は冷めきってしまった。もちろん、人気の作品ならば対価を得ようとするのは当然なのかもしれないが、この作品の「独自の性質」を考えればあまり良い判断とは言えない。これは単純に金の匂いがしたから駄目という話ではないと思う。

「死んだ人」感


 キャラクターの死とは難しいものだ。舞台が戦国時代とかのキャラクターは現世では皆死んでいるが、いちいち「嗚呼、彼らはもうこの世にはいない」等と考えながら作品を見ないだろう(そもそもキャラクターなんだけど)。読者はあくまで作品中に写し出された時系列に沿い、感情を巡らせる。作品の最後の方で死ぬキャラクターは「死んだ人」感が薄い。逆に序盤なら「死んだ人」感が濃い。また、作品の途中に死ぬキャラクターは立ち位置によって「死んだ人」感の濃淡が決まる。
 例えばラオウは一応作品の途中で死んだが、そんなに「死んだ人」感はない。「北斗の拳」の登場人物といえばケンシロウの次にラオウと来るからか、何かと存在感がありすぎる。メディアミックスの時に間違いなく選ばれる人材だ。
 「鋼の錬金術師」のヒューズ中佐は序盤で死に、彼の死は過去の出来事として作中でも反復される為「死んだ人」感が強い。
 「ワンピース」のゴールド・ロジャーなんて最初から死んでいるから過去回でどんなに生き生きした姿を描かれ、「おれは死なねえぜ」と言われても「死んだ人」感は拭えない。
 そもそも、作品そのものが誰の目にも触れぬようになってくると作品と共にキャラクターも死んで行く感じがする。そういう意味では、人気作品の登場人物はある程度生き生きしている。

死後の世界線を見せる


 それらを踏まえて、創作で「人が死んだときの喪失感」を再現する事は可能なのだろうか。結局、創作によって生み出されたキャラクターはあくまでもキャラクターでしかない。「100日後に死ぬワニ」はあと一歩のところまで来たんじゃないかと思う。
 しかし、メディアミックスという動きがあまりにもワニが「キャラクター」であるということを強調し過ぎ、読者は白けた。ワニの死による喪失感はやはり人間のそれとは違う偽物であり、キャラクターである事の強調は偽物の喪失感であるという事の強調でもあった。死んだおじいちゃんがメディアミックスされる事はないし、やはり喪失感にリアリティがある。亡くなったばかりのアーティストの顔や作品を連日目にすることは喪失感に拍車をかけるが、厚みのない世界の住人の場合は逆効果だ。喪失感の演出が大事なのに元々存在していない事を強調してどうする
  悪趣味かもしれないがワニが死んだ後の世界線を保ちながらメディアミックスをすればよかったのかもしれない。グッズを作るにせよ、ワニは死装束をまとい、他のキャラクターも喪服を着ていたり、どこか故人を偲ぶ表情をしていたら「ワニの死」という雰囲気に対して冷水をぶっかける事は無かったと思うし、「ワニが死んだ」という読後感は守られる。
 そうすれば「故人に対する喪失感」は見事に再現されるかもしれないし、創作でそれが出来たら凄い事なんじゃないだろうか。まぁ、そういうコンセプトだったはずなんだけど。しかし、そんな事をすれば、それはそれで炎上するだろう。でも、その炎上の火で彼を火葬してやればいいだけの話だ。問題無い。

 さくらももこさんがお亡くなりになられたとき、「ちびまる子ちゃん」が亡くなったという感覚があった。何を隠そうモデルが御本人だし、漫画で読んだことがある人は特にそう感じたのではないだろうか。特殊な例なのかも知れないが、単に好きな著名人が亡くなった時とは少し違う感情だった。


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