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高原に立つ
孤高の登山家、加藤文太郎は「山は山を愛する人全てに、幸いを与えてくれる」と言った。
かつて僕は盛んに山に登った経験がある。僕の山登りは自分自身との対峙、自然との対峙にあったと思う。鳥のさえずりや可憐に花を咲かせる高山植物、自分自身に与えられた命を懸命に生きるそうした動植物の存在が、僕の心の琴線に触れるのだった。
眼下に眺望が開けた高原に立つのが好きだ。例えば、そこに自分の住む街を俯瞰したとしよう。普段自分が住む世間という世界の何と狭いことだろう…を感じた時に、僕の心の中に鬱積する不平不満や焦り苛立ちと言うものが払拭されるのである。
清澄な空気が身体の芯にまで達し、爽快な気分は僕が明日を生きる糧となる。
敬愛する漱石先生は言った。「日本より世界は広い。世界よりも宇宙は広い。そして宇宙よりも自分の頭の中は広い」と。
こうした言葉は、どんなにか僕を勇気づけてくれることだろう。
雑多で混沌とした日常に身を置く時、僕はこうした気分を忘れてしまい、水面に浮かぶ浮草のように風が吹けば、あちらこちらへと彷徨ってしまう。
世間の中に身を置く時、目にしたくないものが目に入り、耳にしたくない言葉が否応なしに耳に届くことがままある。そうして僕の心の中の泉は澱んでしまうのだ。
勿論、自分が正義で自分の主張が絶対だなどと言うおごりが無いことが前提ではあるが、僕は正直な人間であると思う。正直だからこそ、生き難い世の中と言うのも存在はするかも知れない。
出口の見えない暗いトンネルの中を歩くのは辛いだろう。そこに一筋の光が見えたならそれは希望の光に違いない。だからこそ、自分の内にある泉は枯渇させることなく透き通ったものにしておきたい。
折々に見晴らしのいい高原に立ち、澱んだ泉の水を濾過するというのは、僕が僕であるための大事な事なのかも知れない。
2020/03/31