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僕の正直

「そんな事君、書いた本人だって分りゃしないよ」
漱石先生が教鞭をとっていた際に、詰問する生徒に放った言葉である。

実際にそうした事はあるだろうと思う。
自分でも何故、あんな事を言ったのだろう?
何を思って、あんな事を書いたのだろう?
と言う事は、ままある。

僕は自分の意識の外で、何か吐いてはいけない言葉を吐いていはしまいかを思うと、途端に不安になる。

寄り添いの気持ちを喚起して、他人と対峙したいと思いながら、自分の癇癪が顔をのぞかせ、他人を傷つけ自分ではのほほんととしていることを想像すると、全く僕は怖くなってしまう。

かと言って、寡黙に人生を歩いていく事は出来ないし、どんなコミュニケーションがベストなのか、未だ判然としないでいる。

先日ある方が、ある方に向かって、人生のアドバイスをしている放送を聴いた。
その方は、自分が博識で思いが深いと周りから見られてはいるのだろうが、決して人生のご意見番的な立場ではない事を忘れ、僕にとっては過激な発言を発していた。

本人に悪気は無いにしても、自分に酔ってそうした発言をするのは如何なものだろう…

そうした言葉を受け止める側の方も又、言葉を返す事なく傾聴していたが、僕には理解の範疇を超えたやり取りとして耳に響いた。

相談をする方は、心の拠り所が欲しいのではなかろうか?そう思わずにはいられなかった。
そして、自分の中では既に答えはあるのではないかと感じた。
自分の思いに賛同が欲しかったのかもしれない。

人間は強い様で弱いかも知れない。
群集心理ではなかろうが、ある意味徒党を組みたいのかも知れない。

一概に悪い事とは言いはしないが、そこに迎合が潜んでいたりしたならば、精神的にも非常に危険ではなかろうか?

自分を自分色に染めたいならば…
小さくても自分の花を咲かせたいと願うならば…
その正直な自分の気持ちに真摯に向き合って、難しいのかも知れないが、不要な見栄やプライドを脱ぎ捨てて、裸になる事も大事なのではないだろうか?

と、そんな事を言いながら、僕のこの言い分が、皆さんにとって不愉快極まり無いものだったら、僕は伏してお詫び申し上げるものである。

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