愛とか自己愛とか(1)
「恋なんて 言わばエゴとエゴのシーソーゲーム」
「許してね恋心よ 甘い夢は波にさらわれたの」
最近、20年前くらいの曲を再び聞いてみると、その歌詞の奥深さにアッとさせられることが多い。
これらは言わずとしれた名曲である。
前者はMr.Childrenの『シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~ 』の一節である。恋はシーソーゲームとはよく言ったものだ、「エゴ=愛する気持ち」はどちらかのバランスが崩れては成り立たず、両者が釣り合ったときだけ成立する脆いもの。片思い中の心情に乗せて、その危うさを理解しつつも前に進もうとする歌だ。
後者はポルノグラフィティの『サウダージ』の歌詞である。この曲は離れてしまったあの人への郷愁の気持ちを、「恋心」に当てつけて語っているところが秀逸だと思う。揺れ動く心の中、わたしは「あなた」ではなく「あなたを好きだった恋心」を歌っているのである。諦めきれない気持ちを捨て去り、空元気で前向きに生きようとする、なんとも甲斐甲斐しい歌である。
ふと今日この曲を聞いていたら、この両者には共通項があるのではないか、と気がついた。
それは、「恋とは自己愛」を表現しているように思えるところである。
(今回のノートでは名曲に勝手に自己解釈を加えてしまうけど、解釈違いがあったとしても許してほしい。私には世の中の物事すべてを現代アートのように捉えてしまう癖がある)
私は2年ほど前に、愛とは何かを模索した小説を書いたことがある。
「及ばぬ恋の滝登り」という題名で綴ったそれは「この世に絶対愛・無償の愛は存在するか?」「存在し得たとして、それを追求するのは正義なのか?」と問うたものである。
小説の中で、絶対愛へのアンチテーゼとして2人の登場人物を登場させた。彼らは、主人公に恋愛の定義を訊かれたとき、以下のように答えるのである。
主人公はこの答えにどこか違和感を覚え、最終的に見返りが無いと分かっている愛にひたすら突き進んでいく。絶対愛などという綺麗事をあくまでも追求して、非合理的な選択をしてしまう主人公の心の動き自体は、酷く人間らしくて私は愛おしく感じる。
ただ、ある意味で彼女自信もまた、『絶対愛を貫く自分』という人間らしさを追求するため、言わば自己のアイデンティティの正当化のために、他人に愛を注ぐ決断をしたと考えることもできる。
僕の友達は、よく「っていう自分のことが好きなんでしょ」と言う。
正直、それを口癖にするのは趣味が悪いなあとも思えど、あながち違うとも言えないのが悔しいところである。
私は、それでも彼のことが好き。っていう私のことが好き。
なんと恐ろしく残酷で、納得感のある自己言及だろう。
恋とは、愛とはエゴである。
自分が誰かを愛するのは、歪な自己愛の裏返しではある。
自分がこの人を愛したいという自分勝手な気持ちであり、そこに相手は介在しない。ただ、エゴの釣り合いが取れた時に、まるでお互いのために与えあっている関係だと錯覚してしまうだけ。
「恋心」はすべての人の中に平等に存在し、そこに「あなた」を当てはめていくのだ。
だからこそ、その恋心が対象を失ったあと許しを請うのだ。
私のエゴを満たすことが出来なくてごめんなさい、と。
結局、わたしたちが興味をそそられるものは、自分自身に似た境遇のものなのかもしれない。
「私のことを大切にしてくれるところ」
→自分の自己肯定感を高めてくれる存在。
「価値観が合うところかな」
→自分の価値観を肯定してくれる存在。
「自分に無いものを持ってるから尊敬できるんだよね」
→自分自身を相対化して、アイデンティティをはっきりさせてくれる存在。
それは恋愛だけじゃない、芸術だってそう。
私がこうして様々な事象を考えて文章にしているのも、自己愛に他ならないのかもしれない。
ただ、断っておこう、私は自己愛を別に否定したいわけじゃない。
むしろ、声を大にして肯定したい。
私を愛することがこの世で一番大切。それ以外を追い求めることの、なんと無意味なことか、と。
それでも、自己を愛したいという人間の性に抗いたくなってしまうことは人間らしくて美しく、私はそんな人間の脆さが好きで、でもそれって結局自分の脆さの肯定に他ならないから結局は自己愛で……
こうして私は出口のないループにとらわれるのである。
……自己愛の芸術についても語りたいことは山程あるが、そろそろ疲れたので明日に回そう。
2日目から張り切っても続かないものだ。
ところで、自己愛については、米澤穂信さんが書いた『ボトルネック』という傑作がある。
今度もう一度読み返したら、もしかしたら別の発見があるのかもしれない。次はこれを読まなければ。
私の課題図書は一向に増えていくばっかりだ。
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