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大切な娘が嫁ぎ先で苦労して体を壊したことがショックだったのだろう。
園子とカナコが成長するにつれて、堺家の祖母の口から松山家に対する否定的な言葉が出るようになった。

敦子がお嫁にいったとたん、それまでいた女中さんが暇を出されたのよ。
宗男さんの下にまだ学生のきょうだいが三人もいて、食事作りだけでも大変だったのに。
しかも、離れの工事が遅れて、長いこと寒い場所で寝起きさせられて。
最初のお産が重かったのはそのせいよ。

母は、カナコが生まれるまえにも、一度倒れている。
台所でうずくまっている母を幼い園子が見つけ、助けを呼んだ。
そのときのことは、園子も鮮明に記憶していた。 
(おばあちゃん、ママがたいへん! ママがたいへんよ!)
病院に救急搬送された母は、急性虫垂炎と診断された。
腹膜炎を起こしかけ、危険な状態だった。

あなたたちの家の人は、無神経で、思いやりに欠けているのよ。
堺家の祖母は憤り、真剣な表情で園子とカナコを交互に見た。
だから、あなたたちでしっかりお母さんを守ってあげてほしいの。

話好きな祖母とは対照的に、母自身は、あまり自分の過去を話さない人だった。

大連から引き揚げたあと、母は小・中学校を地元で過ごした。
勉強ができたので高校は私学に入り、大学も京都で英文学を学んだ。
大学に近い小さな修道院に寄宿した母は、キリスト教に親しんだ。
実際、シスターに勧められて本気で信仰を考えたこともあったとか。

成績優秀だった母は、本当は、英語を教える仕事に就きたかった。
しかし、良家の娘は外で働いたりするものではないという家の方針で、卒業後は地元に戻り、家事と医院の手伝いをして過ごした。

中学で英語の非常勤講師をした時期もあったが、祖父に良い顔をされず、一年でやめた。その後、当時としては遅めの25歳で、最初の見合い相手だった父との結婚を決めた。

医師の家からまったく家風の異なる田舎の家に嫁いだ母だったが、社交的で誰に対してもわけへだてなく接する性格から、みなに好かれた。

表情豊かで、誰かと目が合うとぱっと笑顔になる。
ちょっとしたことでもすぐ感激し、子どものように喜ぶ。
いかにも育ちの良さを感じさせるので、やっかみ半分で意地悪なことを言う人もいたが、村のほとんどの人が母を好きになった。

母は、おしゃれでもあった。
娘たちの音楽教室のレッスン日には、時間をかけて念入りに身支度をした。
春はボウタイのブラウスに、スリット入りのミドル丈のタイトスカート。
夏は麻のワンピースに白いレースの手袋、レースの日傘。
秋はツイードの上下に、シルクのスカーフ。
冬はシックなロングコート、ロングブーツに黒のベレー帽。
靴のヒールは、どんなときも7センチ。

当時、田舎でそこまでスノッブな装いをする人は珍しかった。
駅までの道で誰かに出会うと、よく「なんて素敵」と褒められていた。

そんなふうに人に華やかな印象を与える母も、ふっと陰りを見せることがあった。
たとえば電車に乗っているとき、母はほとんど話をせず、ずっと物思いにふけっている。

お母さんはユリの花みたいだ――いつの頃からか、カナコはそんな目で母の横顔を見るようになった。

山道を歩いているとき、ぱっと目に入ってくる白いユリ。
まわりに溶け込むことなく凛と咲いているが、うつむき加減で、どこか寂しげでもある。
そして、なんとなく、悲しい運命を予感させる。

午後に離れで休憩している母のために、園子もカナコもよくお茶をいれた。
花柄のティーカップに紅茶を注ぎ、レーズンクッキーを添えて、小さな朱塗りの盆に載せ、母屋からしずしずと運んでいく。
母はいつも子どものように手を叩いて喜んだ。

園子もカナコも、ずっと今のまま変わらないでいてほしい。
永遠に自分の元から離れていってほしくない。
冗談とも本気ともつかない顔で、母はそんな言葉を口にした。

ある時期まで、カナコは本気で考えていた。
自分は大人になっても結婚しない。
早く独立して自分の家を建て、そこに母を呼ぼう、と。


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