【静寂の周波数】
高速道路を環境課の公用車が走る。
窓の外を流れていく景色に飽きを感じ始めた夜八はサービスエリアで買っていたサンドイッチの封を切った。
「このフルーツサンド当たりかも!」
新鮮な果物を使用しているという宣伝看板は虚偽ではなく、表情を見るに割高だった分の価値はありそうだ。
「次のインターで降ります。そこから15分程で現地に到着予定です」
ウアス・ウェルニッケの呼びかけにネロニカと、少し遅れて夜八が頷いた。
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"カーボンコピー"による連続殺傷事件が解決して二週間が経過した。
残存キャリアはリムーバーによる処置を終えてリハビリテーションの最中であり、各医療機関から届く連絡はどれもポジティブな内容だ。
三位総研は同分野の別企業に事業吸収される形で事実上の解体となり、ワイドショーを賑わせていた陰謀論は週刊誌に居場所を移した。
汚染区画に関する情報は一切報じられていない。
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初見では読めそうにない地名の看板を通り過ぎて十分程度進んだ頃、目的地が見えてくる。
一時停止のセンサーに車体が触れるとすぐ傍にある受付窓口から何者かが顔をのぞかせた。
「本日はどういったご用件でしょうか?」
滑らかな外見の、石膏像に似たアンドロイドから流暢な電子音声が届く。
「環境課です。管理システムの確認に来ました」
「伺っています。職員用の駐車場をご利用ください」
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AIの暴走が発端となった事件に対する逆風は脱AIを掲げる利権団体が騒ぎ立てた程度でしかなかった。
規模こそ差異はあれど天気の予測やインフラの管理システム、サイボーグの身体制御時補助など、AI自体は幅広く普及している。
代替案は無く、運用を停止することで発生するデメリットは計り知れない。
システムのチェックや入れ替え、管理範囲の縮小によってリスクを軽減させる動きを見せた企業がほとんどだ。
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「ようこそいらっしゃいました。所長の獅子堂と申します」
ふくよかな腹部とたるんだ頬、少しテカった額。
獅子という名前には不釣り合いだと思わなくもない。
「名前負けしているとよく言われますよ」
持ちネタらしい。
少しバツが悪い夜八は若干視線を逸らした。
「早速ですがシステムチェックをお願いしても構いませんか?」
「分かりました」
廊下の半分を職員用の入り口から施設内を通って管制室に向かう途中、すれ違う全員から明るい挨拶がされる。
数が多すぎて返事が追い付かず、会釈を返すだけでも首が疲れそうになる。
「ここにいる皆さんは元気よく挨拶をすることが習慣になっていますから。お返事はまとめてで構いませんよ」
獅子堂のアドバイスをの通りに、数人の挨拶に対して返事を一つ。
不満そうな顔は無く、誰もが表情を綻ばせている。
「これもメンタルケアの一環ですか?」
ウアスの声色はどこかはつらつとしている――周囲の感情を受け取って、僅かにドーパミンが増加していた。
「そうです。他人との交流において挨拶は基本ですからね」
セキュリティの掛かった扉をいくつか潜り、開かれた先には大型のコンソールが鎮座していた。
獅子堂の指紋と眼球認証によって電源が投入されて、夜八が席に座る。
「接続します」
外部からのアクセスが一切遮断されているローカルネットワークへの接続はここでしか出来ず、三人が訪問した理由の一つはこれだ。
電脳越しに俯瞰したシステム内部にはいくつものデータブロックが浮かんでいて、その中には施設利用者の電脳も接続されている。
これらを計算資源として利用している事は明らかで、施設の運営の一部を賄っているのだろう。
二名洲ブロックの運営にも流用されているかもしれないが、今回はその話をしに来たわけではない。
「メンタルケアとは、具体的にどのような事が行われているのですか?」
作業を待つ間の世間話という体で、ウアスが獅子堂に尋ねる。
施設内の職員は利用者と比べて圧倒的に少なく、マンツーマンでのヒアリングやケアが行われている様子は見られなかった。
「自発的で前向きな行動の全てに快感物質の分泌が促されるよう調整され、自己肯定による精神の充実を補助し、社会復帰を促進しています」
「挨拶もその一つですか?」
「自発的な挨拶は自己肯定感を得る行為として認識されます。これはAIによって分泌物が調整されることによって起こる動機づけの一つです」
刷り込みと動機付けは三位総研のAIの動作機序に類似している――ウアスの脳裏に過った考えは、
「このAIのリソースは利用者の電脳状態の監視と刷り込みの調整、スケジュール管理に大部分が割かれていますけど、これはわざとそういう設計がしてあるんですか?」
「良くお分かりですね」
夜八の言葉と獅子堂の反応で霧散した。
「全ての行動が快感物質の分泌を促していては意味がありません。本人の意志によって発生した行動—―挑戦であったり、他者への協力であったり、社会的に必要な行動が何であるかを定義する必要があります」
簡単なようで複雑なのです、と獅子堂は言う。
「その計算の為に、利用者の電脳の一部を使わせてもらっています」
誤魔化すつもりはないらしい。
「……なるほど」
接続用の端子を取り外して夜八は席から立ち上がった。
「もう終わりですか?」
「半年分のシステムログを確認しましたけど、エラーや異常な挙動をしているものは無かったので問題はないと思います」
「念の為に三年ほど遡っておきますか?」
夜八の片眉が僅かに動き、ウアスは首を横に振った。
「冗談です。データ量として問題無いと判断出来ます。ご協力ありがとうございます」
「いえいえ、お疲れ様でした。」
僅かな疑念が張れた言葉を受け取って、ウアスはにこりと微笑んだ。
「予定より早く終わりましたので、もしよろしければ施設を案内していただけないでしょうか」
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獅子堂を先頭に三人は廊下を歩いていく。
学校の教室ほどの広さがある室内では十人ほどの利用者が何かを教わっている様子が見られた。
「何をされているんですか?」
「今は事務資格の勉強ですね。専門性の高いものではなく、自己学習で充分にクリア出来るものがほとんどですが」
施設の利用者は元々実社会での生活経験があり、職場環境や家庭環境が原因でリタイアした人ばかりだという。
「自発的に挑戦したという事が自己肯定に繋がり、結果に対して前向きでいられます」
社会は過程ではなく結果を評価する――当たり前の事だが、それを苦痛に思う人がいる事も事実だ。
「ですが学校ではありませんから、娯楽や趣味に没頭する人もいますよ」
どうやら上の階へ移動する様だ。
「夜八さん?」
ネロニカは部屋一つ分後ろにいた夜八へと呼びかける。
「あ、うん」
部屋の中に何度か視線を向けて、階段を登る。
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部屋に近づくにつれて聞こえてきたのは複数の電子オルガンの音色だ。
セッションをしている訳ではないらしく、弾いている曲はそれぞれ違っている。
運指は拙く、教わり始めたばかりであることが見て取れた。
「まだまだかかりそうですね」
獅子堂の表情は子供を見つめる親の様で、その視線には慈愛が込められている。
ピアノを多少なりとも嗜むネロニカには、彼らが心から楽しそうに、そして幸せそうに演奏している事が理解出来た。
――少し難易度の高い楽曲に譜面が変わったのか、一つの音が途切れ始める。
様子を見に行く講師の後ろ姿から視線を外し、ふと近くに誰もいない事に気が付いた。
「行きますよネロニカさん」
ウアスの呼ぶ声が聞こえる。
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「ご協力ありがとうございました。失礼いたします」
「お気をつけて」
見送られながら発進した車は施設を後にした。
バックミラーからその姿が消えて、無言の時間が少しだけ訪れる。
「重力汚染は検知出来ましたか?」
夜八が二名洲ブロックに来なければいけなかった理由がこれだ。
鋭敏な重覚を持つ彼女は、先の汚染区域探査においてもその能力を発揮している。
「施設内を一通り回っても検知は出来なかったので、付近には残留していないと思います」
「では問題無しですね」
重覚による検知作業はこの他にもいくつか候補地が挙げられている。
現時点で夜八が割り当てられていたのは二名洲だけだ。
「変わった施設でしたね」
メンタルケア自体は珍しいものではなく、薬物や電子ドラッグによる精神の安定が一般的な対処療法だ。
刷り込みによる改善方法は少なくとも吾妻ブロック内では行われていない。
「俺にとっては都合が良い場所ですね」
他者の意識の影響を受けるウアスにとって、半ば強制的とはいえ本人が心地よくある環境は言葉の通りだ。
「社会復帰のシステムとしてはすごいですね。運用と管理にコストがかかりそうですけど……」
施設の運用そのものから利益が出るとは到底思えなかった。
二名洲ブロックの運営に転用されている部分があり、資金援助を受けられていると考えるのが自然だろう。
夜八とウアスが話している間、ネロニカは窓の外に視線を向けたまま無言の姿勢を貫いている。
何か考え込んでいると感じた二人は、静かに電脳での会話に切り替える。
無視をしている訳ではなく、耳に入る肯定的な意見に対してネロニカは同意を抱いていた。
施設の中で見た表情は偽りなく幸せそのものであり、それを否定する事は出来ない。
そうした意味ではこの施設は楽園の様に思える。
だがそれは、環境課に入る以前であればの話だ。
命令に従う事自体が存在理由であり、幸福であると認識していた価値観に戻りたいとは思わない。
他者との関わりの意味を僅かでも理解し始めた今、完全な自己完結の中に見出されている幸福の形に漠然とした寂しさを感じている。
どちらも正しく、そして両立が出来ない矛盾に向けられた思考は言語化される事は無く、突然降ってきた水滴に溶け落ちた。
「……庁舎に戻るのは少し遅くなると思うので、お休みしていても大丈夫ですよ」
窓から見える景色は滲み、視線を外から前へ戻した。
不均一な雨音と、時折訪れる静寂を繰り返しながら、進む。
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【静寂の周波数】
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