【晩餐を楽しむ為の心得】

「空村さーん?」

マンションの警備を任されている男性が、部屋のチャイムを二度鳴らす。
先日オーナー宛に住人の一人が勤める会社から無断欠勤の連絡が入ったという。
スマートフォンは電源が切られているのか連絡がつかず、電話口では責め立てる様な言葉が何度も繰り返されていたらしい。

「逃げたとかじゃないんかね」

ぼそりと呟く。
数分待っても反応は無く、借りていたマスターキーを差し込んで――鍵は掛かっていなかった。
僅かに体温が下がる気配と緊張感を保ちながら、念の為に警棒に手を添える。
静かに玄関の扉を開いて中に入り、一層の空気の重さに眉根を歪めた。
玄関には整えられた靴が置かれていたが、部屋の中に人の気配は感じられない。
左側――バスルームを通り過ぎる。
右側――寝室への扉には小さな隙間があった。

「空村さん」

呼びかける。

「開けますよ」

フローリングを踏みしめる音が蝶番の擦れを掻き消した。

「…………」

ベッドに横たわる男性の姿がある。
目と口は閉じられていて、穏やかな寝顔にも見える。
たまたま寝過ごしただけかもしれない――彼の上にかけられた布団が赤黒く染まっていなければ、だが。

「オーナーですか?ええ、すいません。警察に連絡をお願いします」

***
***中略***
***

「被害者は空村斎(うろむらいつき)。43歳、独身。近くのIT企業に勤めていて、三日前から無断欠勤をしていた、と」

現場検証を行う刑事の一人が読み上げる。

「クソブラックだなその会社。自分とこの社員がいないってのに三日も放置か?」

「ネットの評判はいいみたいですけどね」

「アホかお前。そんなもん鵜呑みにしてどうする」

良くも悪くも情報過多の社会において、真実と虚偽を判断する根拠を見つける事は至難の業だ。

「入社してすぐの中途が飛んだなら、どうせそんなもんだろうって遅れるのはまあ分からんでもない。ただ空村斎は年齢的にも立場的にもそれなりだろう?そんな奴がいなくなったら会社として危機感を抱くのが普通だ」

「年齢は分かりますけど、立場的にもっていうのは?」

「このマンションの家賃は安くない。それこそ平均以上の収入が無いと維持は出来ん」

それに、と付け加えて。

「机の上に並んでる料理、あれは高級レストランのフルコースだぞ。何で手がついてないかは分からんが、たまの贅沢にしては随分グレードが高い」

「はぁー……。細かいところ見てますね。先輩、探偵とか向いてるんじゃないですか?」

「はっ倒すぞお前」

メモ帳を顔の前に掲げ、鋭い眼光から隠れる様に身を縮こまらせた。

「榊原警部。ご報告が」

「何だ」

「通帳や財布の類は室内には残されていませんでした。荒らされた形跡もありましたが……」

「が?」

「金品の荒らし方と様子が違うんです。何かを探しているというより、八つ当たりしているだけの様な」

「ふむ……」

既に遺体が運び出された寝室は、凄惨なベッドの存在感が際立っている。
クローゼットの中身は散乱し、パソコンはケースが破損していた。
ベッド脇の小さな棚はそれに比べると小綺麗で、全ての引き出しが開けられた痕跡が見受けられる程度だった。

「複数人の犯行ですかね」

「……いや、どうだろうな」

一人で行ったものでない事は確かだろう。
だが、何らかの違和感がある事は確かだった。

「一度戻る。詳細は後で送ってくれるか?」

「了解しました」

***
***中略***
***

「先輩!監視カメラの映像データ届きました!」

「もう見てるぞ」

「えっ」

マンションの出入口に備え付けられた監視カメラの映像を管理会社から受け取り、一週目を終えたところだった。

「お前は?」

「いや、これからですけど」

「そうか。じゃあ――この辺りの出入りをよく見ておけ」

時間が書かれたメモを手渡して榊原は席を立った。

「どこ行くんですか?」

「煙草だよ」

***
***中略***
***

「監視カメラに映っているのはマンションの住人がほとんどだが、それに該当しない人物が複数人確認出来ただろう?」

「そうですね。五人、かな?」

「七人だ。もっとよく見ろ。まあ、お前が見逃した二人は清掃業者の二人だから許してやる」

「セーフ!」

「……」

「いや、違うんですよ。はい!もっと精進します!」

調子の良い部下に溜息を吐いて、榊原は七人の顔写真を並べる。

「二人は清掃業者で間違いない。裏も取れている。残る五人だが、部屋の荒らされ具合から見て高齢の二人は除外してもいいだろう」

マンションの滞在時間も短かった事も理由の一つではある。
住人と連れ立って外に出て行った様子もあり、現時点では白だ。

「残る三人が怪しいんですよね」

「そうだ。お前はどう思う?」

「これかなっていうのは紙袋抱えてた人ですね。挙動不審だし、あの中に凶器とか盗んだ財布とかを隠してるんじゃないかって」

両手で紙袋を抱えながら走る男。
エントランスから出て一目散に走る姿は確かに怪しいが、周囲を気にしていないという点が引っかかる。
タクシー乗り場で律儀に並んでいる様子も、ここから早く離れようという意志が感じられない。
注目を集めない為のカモフラージュの可能性は捨てきれないが、榊原の勘はこの男に向けられていなかった。

「念の為に聴取はしておくか……。ああ、それと――」

「何ですか?」

「空村の口座がある金融機関に連絡して、最近引き出された形跡があるか確認しておいてくれ」

***
***中略***
***


「さて」

榊原の前には一人の男が座っている。
それはマンションの監視カメラに映っていた人物であり、口座の利用ログから同時刻の映像記録からも同一人物であることが確認出来ている。

「アンタに黙秘権はあるが、俺としては素直に話してくれた方が楽でいい」

「……」

俯いて無言を保つその表情には半ば諦めが浮かんでいる。

「マンションの監視カメラと、銀行の監視カメラの両方でアンタの姿を確認している」

「……」

「随分いい時計を持ってるじゃないか。高かっただろ?」

「……」

「いつまで黙って――」

「お前が黙ってろ」

身を乗り出しかけた部下を制する様に、振り返る事なく短く威圧する。

「勘違いするな。無理強いして追い詰める事は俺たちの仕事じゃない」

「すみません……」

「悪いな。それにしてもだ、証拠らしい証拠が揃ってる状況なだけに、ここで黙っていても裁判でどうにかなるとは思わない方がいいんじゃないか」

「……」

「金に困っての犯行か、たまたま通りがかりに盗んだのかは分からないが――人を殺すほどの価値があるのか?」

「え?」

初めての声は困惑、そして怯え。

「死んだ……?」

「ああ。胸と喉を刺されてな。お前じゃないのか?」

「っ、違う!俺はただ――」

「ただ、何だ」

衝動的な否定は、ある意味で自白だった。

「俺はただ、鍵が開いてたから、中を覗いて……」

魔が差した、ということらしい。
その時間帯は暗く、電気の着いていない部屋の中で男がどうなっていたか見ていない。
財布と通帳、そして机に置かれていた時計を盗って逃げたという言葉は状況からも一致していた。

「……詳しい事は分からんが、初犯なんだろう?素直に自白したことだし、多少は罪も軽くなるかもしれないが」

「そう、なんですか?」

僅かな期待が込められた視線を、白々しく受け止めながら。

「そうだといいな、と思っただけだよ」

***
***中略***
***

「つまり、強盗と殺人は別々に行われたってことですよね」

部下の問い掛けに首肯する。
現場の荒らされ方に違和感を抱いたのは正しい直感だったと言える。

「その時点で空村は死んでいたんでしょうか」

「どうだろうな。司法解剖の結果は?」

「来てたと思いますけど――」

「榊原警部!」


***
***中略***
***


「私は悪くないわ」

開口して最初に出てきたのはそんな一言だった。

「何の話だ?」

「分かってるんでしょう?斎を殺したのは私。でもそれが何?アイツが私にしたことに比べたら、当たり前よ!」

どこか焦点の合っていない視線と会話。
目の前の女性は延々と空村を侮辱する言葉を並べ立てている。

「死んだ人間をあんまり悪く言うもんじゃないな」

「はぁ?アンタに何が分かるっていうのよ!」

もはやテンプレと化した責任転嫁と自己弁護を繰り返す。

「婚約してたのよ!それが急に婚約破棄って言われて……。こんな年で別の相手を探すなんて出来る訳ないでしょ!?」

血走った目はヒステリーを通り越してホラーの体でもある。

「私の人生滅茶苦茶にされたんだから、私だってアイツの人生滅茶苦茶にしてもいいじゃない!若い女に浮気して、いい気味よ!」

捜査の途中で明らかになった事だが、空村の周辺に他の女性の影は見つけられなかった。
被害妄想でしかない完全な言い訳。

「それで、殺したと」

「そうよ!話がしたいって言ってたのに気持ちよさそうに寝てて、許せなくなって、だから!」

「だから?」

「私は悪くないのよ!むしろ被害者だわ!」

眉間を揉み解す。

「気に食わない相手を自由に殺せたら、今頃この国の人口は半分以下だろうな」

「もっと減るんじゃないですか?」

そうかもしれない。
しかし、そうはならない。

「何の話よ」

「ここは法治国家だ。アンタの感情論がどうであれ、罪は罪だ」

閉じた扉の先で金切り声が反響する。

「理解も同情も出来んな。お前は?」

「同じ気持ちです。付け加えるなら、恥ずかしい、ですね」

***
***中略***
***

「死因は失血じゃない?」

司法解剖の結果は薬物の過剰摂取による窒息死だった。

「ヒステリーババアの相手は終わったか?」

初老の男性が薄いファイルを手に歩み寄ってくる。

「訴えられますよ?」

「……面倒な時代になったもんだよ」

投げ出すように椅子に座り、机の上にそれを滑らせた。

「睡眠薬の過剰摂取だとさ。かかりつけ医の話だと、数か月前から不眠症に悩まされていたらしい」

処方される薬の量は、一度に使い切ってもそうならないように調整されている事がほとんどである。
空村が服用したと思われる総量はその三回分に及び、明らかに危険域を越えていた。

「つまり、自殺だったってことだ」

***
***中略***
***

「何か釈然としませんね」

男は窃盗罪で、女は死体損壊罪で共に有罪判決を受けることとなった。
しかし事件の当初に思っていた内容とは異なり、空村斎は睡眠薬の過剰摂取による自殺であり、ある意味では前者二名と関わりのない顛末とも言える。

「空村の勤めていた会社の調査結果は見たか?」

「見ましたよ。超ブラックでした」

会社から徴収した勤怠表を見る限り、ほとんどの社員の月間時間外労働は120時間を超えており、ニュースの話題はそちらで持ちきりだ。
中間管理職だった彼の労務環境はそれに輪をかけて劣悪なものであり、彼の精神状態は正常でなかったとも考えられる。

「婚約破棄も恋人に迷惑をかけない様に、とかだったんですかね」

真意は分からないが、仮にそうだったとすればこの結果はあまりにも悲惨だ。

「同情はしないがな」

その可能性を知ったところで救いにはならず、罪の事実が消える事もない。

「あ、そういえば」

現場写真の一枚を取り出した。

「空村は最初から自殺するつもりだった訳ですよね。じゃあなんでこんな料理を頼んでたんでしょうか?」

手の着いていないフルコース。
コルクが抜かれたばかりのワインが注がれたグラスが一つ。

「最後の晩餐のつもりだったんじゃないか?」

「先輩、ロマンチストですね」

「はっ倒すぞお前」

「ちょちょちょ、冗談ですって」

浮かしかけた右手を下ろす。

「でも私なら食べてから死にますね。勿体ないし」

アホか、と罵る事すら面倒くさい。

「もし先輩なら、最後に食べるなら何がいいんですか?」

何かを期待する視線。

「……サバの味噌煮」

「渋っ!まあ、分かりました」

こいつは俺を殺したいのではないだろうか。

「最後の晩餐にはしたくないぞ」

「何も仕込みませんって!」




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【晩餐を楽しむための心得】

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著:エイル・アーデン


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