【人生を謳歌する為の心得】
ある出版社のデスクにて、一人の青年が壮年の男性と向かい合っていた。
青年はここに所属する作家であり、先日送付した原稿を読み終えた担当編集との打ち合わせの為に出社したのが昼前である。
300ページに及ぶ一通りを読み、それぞれのシーンの意味合いの確認や会話の調整、誤字脱字などの指摘が二時間ほど行われた。
彼の言い分は自分の好みや感情論ではなく理屈や根拠に乗っ取ったものが多く、青年はそういったところを好ましく思い、また尊敬もしている。
ディスカッションが終わると軽い世間話が行われるのが通例だが、今日は普段と様子が違っていた。
担当の彼は口を開きかけては閉じてを何度か繰り返し、言葉になったのはそれから数分後の事だ。
「君の作品の売りは緻密な描写と計算された構成によって生まれるリアリティにある――私はそう思っている」
過不足無く編み上げられた情景描写は、読む者の脳裏に映像を浮かび上がらせる程に。
生々しささえ組み込まれた心理描写は、読む者の心に感情を押し付ける程に。
伏線が正しく回収されたストーリーラインは、物語の先を予感させながらもその手を止めさせない程に。
高次元の技術力は美しさを伴い、そうして描かれる【現実的過ぎる偶像劇】。
「しかし……君の作品はエンターテイメントとしては未熟なのかもしれない」
彼に求められているものは物語であって、芸術品ではない。
――青年の作品に欠けているものはフィクションの分量だ。
作風として、悪く言えば先の展開が読めてしまう上に、凡そその通りにしかならない。
理詰めで構築されたストーリーラインは数式に似ていて、予想外が入り込む余地が存在していない。
それを好む者からの受けは良いが、完成度の高さは必ずしも販売数に比例しないのが市場の常だ。
手元の通信端末にここ半年間の売り上げの一覧が表示される。
全カテゴリの販売数上位は酷く長いタイトルの作品が半分を占めていた。
青年の作品は中堅以下だが、慎ましい生活をするには十分と言えるだろう。
需要と供給の噛み合った結果ではあるが、男はほんの少しだけ渋い顔をした。
それを幼稚とは言うまい。
「大衆が求めるものは娯楽なんだよ」
青年の持つ技量であれば間違いなく上位を目指せるという確信がある。
売れ行きが芳しくないと思ってしまう理由は、そんな欲目から来るものだった。
「君、最近映画は見たかい?」
青年は首を横に振る。
「先週から公開の始まった映画だが非常に評判が良い。チケットを渡すから、帰りに見て来たらいいんじゃないか」
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賃貸の寝床に戻り、冷蔵庫から冷えた林檎を取り出して皮を剝く。
綺麗に八等分された果実にフォークを添えて、作業部屋へと移動した。
担当のおススメした映画はエンターテイメントとして完成度の高いものだった。
巨大なロボットが空を舞い、私欲を満たそうとする悪を挫く物語――いつの世にあっても廃れる事のない王道中の王道だ。
戦いに敗れた主人公が立ち上がるシーンでは、隣に座っていた少年が手に力を込めていた。
絶体絶命の危機に追い込まれるシーンでは、小さな悲鳴が聞こえる程だった。
ラストシーンは、ヒロインの涙が力に変わり、巨大ロボットと主人公が合体して敵を討ち果たすというものだった。
それを見て青年は首を傾げるしかなかった。
ドラマとして、演出としては申し分のないものなのだろう。
しかし何故そうなったのかは語られる事なくエンディングが始まり、どこか釈然としない気持ちのまま帰路に付く事となった。
周囲の興奮や歓喜を理解出来ない有様は、我が事ながら思うところがある。
「……」
否定するつもりはない。
エンタメとは非日常の中に生まれるものだと青年は考えている。
自分の想像もしていなかった事が起こる――その規模に差はあれど、そういった意味の非日常は誰もが一度は経験しているはずだ。
有り得そうで有り得ない、しかし有り得るかもしれない、そんな偶然を望む心理。
先程見た映画を【非日常】と評するには演出が過ぎるが、人々はそれこそを娯楽と呼ぶのだろう。
青年はそう解釈していた。
「……」
端末を起動し、指が動くままに文字の羅列が生まれ始める。
過去に読み、そして見た作品を思い返す。
肉屋の店主がシリアルキラーだった。
隣の老夫婦はかつて名を馳せた大泥棒だった。
腐敗した警察組織に立ち向かう一警官がいた。
医療機関が行う生物兵器の開発が未曾有の災害を引き起こした。
現実には起こり得ない、しかし、あるいは、もしかすると。
それでも青年の思考は空想の領域には届かず、現実に存在する何者かに真逆の役割を持たせてみるのが精一杯だった。
数時間が経過する頃に出来上がったプロットは、マフィア同士の抗争が辿る世界平和への物語だった。
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数日後のある日、次回作の打ち合わせで出社した青年は30ページ程度のプロットを提出した。
それを読んだ担当の男は喜びを隠そうともしない表情を見せた。
慌ただしく編集長室に乗り込み、扉越しにも聞こえる大きな声は段々と小さく、そして力無くなっていく。
「……編集長が話をしたいそうだ」
何かを堪える様にデスクを去る背中を見送って、青年は開いたままの扉を通る。
「どうぞ」
指された椅子に腰かけて、対面に編集長が座る。
こうして一対一で話すのは初めての事だ。
「プロットを読んだよ。彼が興奮していたのも頷ける。これが書き上げられれば、間違いなく売れる、素晴らしい作品になるだろう」
賞賛の言葉とは裏腹に編集長の表情は曇っている。
「しかし、これを作品として発表する事は出来ない」
半ば予想出来ていた答えではあったものの、その理由が思い浮かばない。
編集長の言葉は続く。
「ある映画の主人公が一組の男女だったとしよう。彼らに恋愛感情は一切なく、物語が始まってから終わるまでの間、一度もラブロマンスのシーンが無かったとしよう」
二人の関係性は相棒であり、仲間であり、友であると解釈するべきだ。
「そうであっても、そこに恋愛感情を見出す者がいる。物事の解釈は個人の尺度によって異なり、それを否定する事は出来ない。例え作者自身であっても」
存在していない描写を、想定していない関係性を、自らが描く虚像が自らの望む真実に置き替わってしまう事は往々にして起こりうる。
それすらもエンターテイメントの側面だがね、と言いながら。
「この作品の持つ可能性は、それに該当する」
認識を捻じ曲げる可能性――マフィアが世界平和を成し遂げる組織であるという矛盾。
非合法の世界で金と暴力による支配構造が、法と規律によって成り立つ社会構造と相反する事は誰もが十二分に理解しているはずだ。
エンターテイメントとしての作品がそこまでの影響力を持つとは考えにくく、仮にそうであれば今頃世界は戦争と感動で溢れているに違いない。
そんな冗談を口に出来ない程に、編集長の表情は真剣だった。
「……私から言えるのはそれだけだ」
違和感。
社会的価値観を揺るがす程に大掛かりで空想めいた事を示唆しているのではない。
路地一つを跨いだ先に存在している何か。
まるで輪郭だけの顔を眺める様な空虚な現実感。
「今日はもう帰りなさい。担当には私から改めて説明しておこう」
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賃貸の寝床に戻り、冷蔵庫から冷えた林檎を取り出して皮を剝く。
綺麗に八等分された果実にフォークを添えて、作業部屋へと移動した。
編集長の言葉を頭の中で繰り返す。
「……」
端末を起動し、指が動くままに検索エンジンに文字を打ち込む。
連日報道されるニュース記事を見る。
執筆資料として蓄えたいくつものスクラップデータを見る。
週刊雑誌を、新聞を、ゴシップ記事を、あらゆる情報媒体に目を通す。
見る、見る、見る。
違和感。
そうであるという前提で見なければ、そうであるという前提で構築しなければ、決して触れる事の叶わない小さな綻び。
そこになければならないはずの情報が抜け落ちているという不自然さ。
言及されていなければいけないはずの出来事が雑多な情報に押し流されるという理不尽さ。
意図的に作られた空白の外側にある点が繋がり、情報の境界線が輪郭を成す。
「……」
理性が踏み込む必要はないと囁き、常識が手を止めろと叫ぶ。
社会性が服の袖を引き、それでも青年の指と目は止まらない。
やがて辿り着いたのは、紛れもない【非日常】だった。
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「取材のアポイントメント?私からかね?」
青年から何かを頼まれるという事はこれまでになく、編集長は僅かに訝しむ。
先日の件からまだ一週間も経過しておらず、それと無関係とは思えなかった。
「【ホテル・カデシュ】」
「……何だねそれは」
一秒にも満たない逡巡は青年にとって十分な回答である。
確信を持った視線を受け止めて、先に折れたのは編集長の方だった。
「どこでその名前を?」
この出版社のみならず、その名前を扱う情報誌はほとんどないと言える。
陰謀論を好んで扱う輩はその限りではないが、大抵は与太話と切って捨てられる程度のものでしかない。
しかし――
「数年前に一度だけ、公になった名前がありました。そしてそれ以降、一度も表舞台に出ていない」
青年は確信していた。
情報過多の社会において、忘れ去られるはずの名前。
裏社会から顔を覗かせる情報は多くは無いがゼロでもない。
何かの拍子で再び浮かび上がったとしても、浅ましい陰謀論として根拠足り得ない。
そうなる様に仕向けられているし、仕向けていたはずだった。
「何故私だと?」
今更とぼけるつもりはなく、尋ねたのは彼の考えを聞きたいという純粋な好奇心だ。
「情報操作はマスメディアの特権です。それを実行出来るのはこの場において貴方だけだ」
こちらの意図さえ読み切られている――心の中で白旗を上げた。
「それで、私に何を望む?」
「先程お伝えした通りですが」
「先方への取材の申し込み、か」
これ自体は難しくはない。
連絡を取れる関係性ではあるし、恐らく断られるだろうという安心感もある。
彼が知りたいのはその先、青年の本心。
「裏社会との繋がりを得て、君はどうするつもりだ」
メリットとデメリットがあまりにも不釣り合いな世界を望む理由は、
「作品に役立てば、と」
あまりにも純粋な知的好奇心でしかなかった。
「……それだけか?」
「はい」
自身の社会的地位を揺るがす事の出来る大きな情報を見出しながらも、彼が求めるのは自らの作品作りであると言う。
はぐれモノが命を懸けて探す入口を事も無げに見つけておきながら、だ。
それを愚かと評する事は出来ず、賢いと讃える事も出来そうにない。
「支配人には連絡をしておこう。断られた時はそれっきりだと思ってくれ」
「ありがとうございます」
青年が小さく微笑み、編集長がその顔を見たのは初めてだったかもしれない。
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賃貸の寝床に戻り、冷蔵庫から冷えた林檎を取り出して皮を剥く。
綺麗に八等分された果実にフォークを添えて、作業部屋へと移動した。
売れる作品を作りたい訳ではない。
売れる人間になりたい訳ではない。
久方ぶりの衝動を止める術を知らないだけだった。
静寂を保ち、やがて届いたのは取材の承諾を得たという連絡。
「……」
それを無感動に眺めながら、ゆっくりと湧き上がる実感に小さく身震いした。
裏社会と表社会は絶対的な境界線を持つものの、それは情報によって遮られているだけに過ぎない。
その薄膜を自らの手で剥がし、ここに至って青年は鍵の重さと危うさをようやく理解していた。
「はは」
乾いた笑いと僅かな震えは恐れか期待か。
自身の本心すら理解していない青年が何者かへと至るのか、濁流に飲まれて消えるのか。
この物語における役割は、未だ定められていない。
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