【Who is Liar?】
雨の降る夜。
コンクリートに染み込んでいく水滴は普段の喧噪を覆い隠し、高架下に燻る紫煙は音を立てずに下へ下へと流れていった。
それらを横目に眺めながらネオン街から路地を三つ跨ぎ、テナント募集中の看板がぶら下げられたビルとビルの間の扉を潜る。
「いらっしゃい」
旧式の義体が僅かに軋む。
剥き出しの目がぎょろりと来店者に向けられるが、男は慣れたものでカウンター席の真ん中に座った。
「空いてんだから端に座れよ」
「別にいいだろ?そんなに客が来るわけでもないんだし」
「ふん……。注文は?」
「モスコミュール。度数強めで」
机を一つ挟んでバーテンダーは滑らかな手際で作り始める。
外の雨音は店内に流れるジャズの音で掻き消され、時折響く氷のシェイク音が合いの手の様でもあった。
「ほらよ」
フルフェイスの男はグラスを手に取り、一度香りを楽しんでから僅かに口に含んだ。
「相変わらず旨いね」
グラスの半分ほどを飲み、煙草に火をつける。
「それで、俺に紹介したい仕事って?」
「――」
無言で届いたのは電脳へのアクセス申請――承認する。
シンプルな封筒のGUI(Graphical User Interface)が開かれ、中から数週間前に起こったある殺人事件の記事が浮かび上がる。
『この事件の調査依頼だ』
【ヴァーシュス家当主殺害】
資産家であり、投資家でもあるヴァシュース家の当主とその妻が殺害されたという事件は一度は話題になったものの、既に過去の出来事になっている。風化する早さが不自然なまでに。
『今更俺に何をしろって?』
『調査と言っただろう。犯人探しか、盗品の流れ先か、どこまでを求めているかは知らん。詳しくは依頼主に聞けばいい』
『きな臭過ぎるんじゃない?』
『指名依頼だ。断っても構わんが……』
フルフェイスが僅かに緊張感を抱く。
『依頼主は?』
『アリス・ヴァーシュス。先日当主を継いだ一人娘だ』
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翌日、訪れた家――の手前の門を見上げて立ち尽くす姿があった。
「デカすぎんでしょ」
時代にそぐわない豪奢な建築物は城と呼ぶには随分と小ぶりではある。
街から車で一時間ほど離れたそこは自然に囲まれており、外界と切り離された様な印象を抱かせる。
『お待たせしております。今扉を開きますので少々お待ちください』
ゆっくりと扉が開いていく。
『正面玄関の手前にお客様用の駐車場が御座いますので、そちらへどうぞ』
機械音声の案内に従って車を走らせる。
綺麗に整えられた庭園には何基ものドローンが巡回しており、中には剪定ばさみを備え付けられた機体があった。
当然といえば当然だが、いくつもの監視カメラがこちらを向いている事に気付き小さく肩を竦める。
「ようこそお越しくださいました。エメリアと申します。当家の侍女長を務めさせて頂いております」
短い赤い髪の女性は恭しく礼をした。
それにつられてぎこちなく頭を下げる。
「お嬢様がお待ちになられています。こちらへどうぞ」
お嬢様――現当主であるアリス・ヴァーシュスの事だろう。
正面玄関を通り、絨毯の敷かれた廊下を進み、大理石の階段を昇り、彫刻によって彩られた扉を開いたその先。
窓から差し込む光にそのまま溶けてしまいそうなか細い少女が椅子に座って目を閉じている。
「こんにちは。急に呼び出してごめんなさい」
見た目通りのか細く、そして甘い声。
「貴方が探偵さん?」
「指名したのはアンタ……いや、そちらでは?」
エメリアの咎める様な視線に気付き、慌てて言い直す。
「ええ。この街で一番信頼出来る人を、とお願いしたのですけれど」
「そりゃまた、随分高い評価を頂いている様で……」
お世辞にしてはサービスが過ぎる言い回しだ。
ミルクの様な、バターの様な、甘い香りを振り払う。
机の上に広げられたティーカップとクッキーから視線を外した。
「――仕事の話をしましょうか」
二度、三度と他愛のないやり取りを交わし、口火を切ったのは男の方である。
「事件の調査依頼としか聞いていないが、どこまでやればいい?」
口調を戻す。
「そもそも俺みたいな木っ端探偵に依頼しなくても、警察なり何なりに任せる案件じゃないのか?」
「最初はそのつもりでした。ですが表沙汰にはしない方が良いとおじ様が仰られて。私たちが危険に晒される可能性があると……」
溜息を吐きたくなる衝動を必死に抑え込む。
資産家の当主が殺害されたという事実はそもそも隠し通せるものではなく、メディア封鎖によっていくら風化を早めたところで何の意味もない。
そのおじ様が何者かは知らないが、無知でないとすれば世間知らずのお嬢様を転がしている様にしか思えなかった。
「だから警察の介入は差し止めて頂きました。……けれど」
目の前の少女が力を込めたのが見て取れた。
「私は、お父様とお母様を奪った人が誰なのかを知りたいのです。罰することも裁くことも出来なくても、真実を知りたい――それが当主である私の責務だと思います」
ゆっくりと開かれた目は正面に座る自分の顔――からややずれた位置に向けられていた。
よく見れば椅子の傍には高級品と分かる杖が立てかけられている。
「……出来る限りの事はしてみるが情報封鎖が仕掛けられた後なんだ、あまり期待し過ぎないでいてくれると気が楽だね」
「ありがとうございます……!」
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ヴァーシュス家を訪れてから三日が経過していた。
その間に彼が追っていたのは盗品の行方である。
電子資産と銀行に預けられた金品とは別に、両親の寝室には宝石やアクセサリーの類が置かれていたらしく、殺害した犯人はそれらを盗み出していた。
近場で処分すれば当然足が着く――仮に無計画な犯行だったとしてもその程度の事は理解しているだろう。
「さて……」
彼が訪れたのは移動用のインフラを利用して数時間ほどかかる別の街だ。
上級市民とでも揶揄すべきだろうか、そこに住む人々の外見や雰囲気はどこか一線を画している。
それに合わせてか街並みもどこか小綺麗で、高級ブランド店が並ぶ通りは言い難い圧力さえ感じられた。
「早く帰りたいね」
居心地の悪さを自覚しつつ、周囲の視線が切れる位置で近くの監視カメラへとハッキングを仕掛ける。
それなりに強固な防壁だが、彼にとってはさしたる障害とはならない。
『アクセス申請を承認しました』
偽装されたアクセスコードに向けて公開されたのは膨大な量の録画記録だ。最終的に盗品が運び込まれたのはこの街で間違いはないだろう。
ゴールからスタートまでの経路を遡る――最短にして最良の選択肢だ。
『映像を再生します』
240倍速で読み取る映像情報のほとんどがノイズであり、大量の処理を押し付けられた彼の電脳が舌打ちをした。
『映像を再生します』
映像のほとんどは変わり映えのない風景で、街を歩く人の姿や店が開いてから閉じるまでの一日を繰り返ししているに過ぎないものだ。
だからこそ、ほんのわずかな違和感は際だって見える。
『映像を再生します』
普段と変わらない車種に、これまでで唯一異なる車両登録ナンバー。
「こいつか」
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登録ナンバーから所有者として登録されている店舗を割り出して。
店舗情報から正規の取引先とそうでない取引先を振り分けて。
裏を通る品物を取り扱うブローカーに直接関わるリスクは避けながら。
盗品の引き渡しがされていたであろう場所は、ネオン街からそう離れていなかった。
『映像を再生します』
調べて分かった事だが、監視カメラの映像の一割程度はデータセンターに回収されていなかった。
つまり、誰かによって都合の悪い映像が残る可能性のある監視カメラはその役割の半分を放棄させられている。
何の為に、と言う必要はないだろう。
『映像を停止します』
鮮明な映像に映っているのは気品さと余裕を感じられる男の姿だ。
顔の構造から照会すれば企業連の幹部の一人であることが分かった。
しかし自分が目を向けたのはその隣――誰もいないはずの空間。
光学迷彩の隙間から、赤い髪がほんの少しだけ顔を出していた。
「なるほどね……」
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『お待たせしております。今扉を開きますので少々お待ちください』
ヴァーシュス家へは二度目の訪問だが、やはりこの威容には圧倒されてしまう。
少し沈んだ肩を持ち上げてアクセルを踏み、ゆっくりと駐車場へと向かう。
途中、離れた位置から車のエンジン音が聞こえてきた。
「お客さんか?」
ほんの小さな好奇心――敷地内の監視カメラへとアクセスし、音の聞こえた方を映す。
運転手付きの高級車に座っていたのはどこかで見た企業連の幹部だった。
見なければ良かったと後悔しつつ、車はそろそろ駐車場へと到着する。
「ようこそお越しくださいました。お嬢様がお待ちです」
迎えに出てきたのはエメリア――赤い髪が太陽に映えている。
その後ろをついていく間は無言で、目の前の背中からは緊張が感じ取れた。
「失礼します」
ノックと共に開かれた扉の先、椅子にアリスは腰かけている。
「は?」
思わず声が出た。
彼女の姿は、秘部を一切隠すつもりのない下着で覆われていたからだ。
白い肌と細い体、女性らしさの象徴とも言える部分は控えめで、色素の薄さが良く分かる。
高級娼婦には持ち合わせていない美しさと儚さが――
「いや何してんだ!」
首が折れる勢いで後ろを向いた。
「お嬢様、その恰好は……」
「お客様っていうからてっきり……。着替えてまいりますね」
深く、深く、溜息を吐く。
少女と呼んで差し支えない裸身を見てしまったことへの自己嫌悪――もある。
彼女が「お客様」と呼んだ人物が何の為にここを訪れているかを理解して。
彼女の首に残る手の跡を目視して。
「クソだな……」
一人になった室内で呟いた言葉は、大理石の床に反響した。
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「先程はお見苦しいものをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした」
淡々と、深々と、頭を下げるアリスに返す言葉もない。
「調査結果を報告しても?」
「……お願いします」
「この家から盗まれた宝石類の販売ルートはこうだ」
非電脳のアリスにはデータで送る事が出来ない為、古い方式だが紙媒体での提出をする。
エメリアが隣で読み上げて、アリスは理解しているかどうか分からない曖昧な頷きを返した。
「盗品だといって返却を求めるのは難しいだろう。手間と金はかかるが、買い戻すくらいしかなさそうだな」
「そうですか」
「それと、盗品を捌いたのはこいつだ。身なりから推測するにどこかのお偉いさんなんだろうが、詳しい事は分からなかった。そっちでなら調べられるかもしれないが」
ほんの一瞬、視線をエメリアへと向ける。
僅かな動揺を押し殺す様子が見て取れた。
「今はこの程度だ。殺しの実行犯はまだ分かってない」
「ありがとうございます」
短いやり取りを終えて部屋を出る――アリスは微笑みを崩さなかった。
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「何故、仰られなかったのですか」
誰もいない長い廊下を歩く最中、エメリアが口を開いた。
「何を?」
「貴方の調査結果には意図的な映像処理が行われていました。お嬢様には見えるはずもないのに」
「……誰が盗品を捌いたとしても関係ないさ。俺が依頼されたのは実行犯を突き止める事だからな」
「であれば、尚更でしょう」
振り返った少女は諦めとは異なる意志を持ってこちらを見つめていた。
「私がアリス様の両親を殺しました」
嘘ではないのだろう。
「そりゃまたどうして」
「……当家の運営資金は投資によるものだけではありません。彼らにとって有益なモノを提供することで得られる見返りも含まれています」
金と権力を持った人々が求めるものは限られる。
つまりは金で買う事の出来ない、権力で手に入れる事の出来ない何か。
「お嬢様自身が商品なのです」
純度100%――生身の女はこの時代では珍しい。
身目麗しくあれば尚更だ。
「記憶に障害が残る強度のドラッグによって痛みさえ快楽に変えさせられて、そのせいでお嬢様の視力は失われました」
言葉に含まれるのは怒りと憐み。
「実の娘を自らの私腹を肥やすための商品として扱う。そんな悪魔が生きていていい訳がありません」
間違っている、と断言は出来なかった。
「……それをお嬢様に言うつもりは?」
「すぐに自首するつもりでした。ですがそれよりも早く警察組織への介入が済んでいました」
ヴァーシュス家の商品の事が表沙汰になることは彼らにとって望ましい事ではない。
その理由が【女を抱けなくなる】というのがあまりにも情けなくはあるが。
「事実を伝えてお嬢様の前から消える事は、私にとっては逃げる事と同じです。……保身の様に聞こえるかもしれませんが、私は生涯をかけてアリス様にお仕えするつもりです」
綺麗事だ、と断言は出来なかった。
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それから一週間が経過した。
殺人の実行犯は侍女長のエメリア――それは間違いないのだろう。
考えてみれば警備の厳重なあの屋敷に侵入し、前当主を殺害出来る訳もない。
誰かに依頼されたのだとしても、リスクを天秤にかければ正常な判断は出来るはずだ。
パトロンである彼らもそんなことを許すとは思えない。
「はぁ……」
調査と呼べるような活動は手についておらず、進展らしい進展は一切ない。
そもそも実行犯が自ら名乗り出ているのだからこれ以上何か出来る事があるとも思えない。
だというのに、それを伝える事が出来ないまま引きずり続けているのは得体のしれない何かが引っかかっているからだ。
何度考えても、腑に落ちないただ一点。
「エメリアがそこまで思い詰めた切っ掛けは何なんだ?」
雇用関係において、また主従関係においても彼女の主は前当主である。
娘を道具の様に扱う主人を見かねて――筋は通ってはいる――ただそれだけだ。
彼女が向ける感情のベクトルはそれ以上の何かである様に思えるが、明確な回答に辿り着く事は無かった。
何度も空転した思考を振り払って体を起こす。
『ヴァシュース家へとお越し下さい』
その隙間に差し込まれた電脳通信。
送信者は【アリス・ヴァシュース】だった。
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屋敷を訪れた自分を迎えたのは初めて見る男性の執事だった。
「エメリアは?」
「侍女長は外出中です。申し訳ありませんが、私が代役を任されております」
「そう?じゃあ頼むよ」
案内される廊下を通りながら、頭の中ではいくつもの疑問が浮かび上がり、そして仮定の上で答えを生み出していた。
何故、どうして、どの様に、であるならば。
彼女の言動も行動も、何もかもが逆転してしまう。
「お嬢様がお待ちです」
開きたくない扉を前に、大きく息を吐く。
「ここまで来ておいてなんだけど、帰っていい?」
「それは……困ります」
本当に困った表情をされたので、仕方なく扉をノックした。
「どうぞ」
甘い声がする。
耳を傾けるなと理性が報せる。
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「ようこそお越しくださいました」
甘い声がする。
蠱惑的で、退廃的で、官能的で、破滅的な、女の声だ。
「今日はどういったご用件でしょうか?」
「そっちが呼び出したんだろうに」
「……ああ!そうでしたね。これは失礼をいたしました」
薄手のカーディガンの下は色素の薄い肌が透けて見えている。
先日程ではないが、随分と機能的な下着も準備されている様だ。
「探偵さんは、どこまで分かりましたか?」
微笑みの後ろに、奈落の様な暗闇を幻視した。
この空間における主は目の前の少女なのだと嫌でも思い知らされる。
「最初から全部、手の平の上だったって事くらいか」
「例えば?」
僅かに上がった口角から悍ましいほどの色気を感じ取った。
「両親を殺したのがエメリアだって事、最初から知ってたんだろう?外部のネットワークに直接の電脳通信が出来るってことは、セキュリティのかかってない自宅の監視カメラなんてどうにでも出来るはずだ」
「……その通りです。外付けの補助があれば私は電脳通信が使用出来ます。おじ様がくれた玩具の一つですが、おかげで色々と助かっていますので」
僅かに赤らんだ頬を見て、顔も知らないおじ様への嫉妬心が湧き上がる。
「一つ訂正があるとしたら、カメラの映像ではなくこの目でその瞬間を見届けた、ということでしょうか」
瞼が開かれ、その瞳は真っすぐに彼を見つめていた。
淡く輝いている様に見えて、その奥は澱み切っている。
「あまりはっきりとは見えませんけど」
視線を外せと理性が叫ぶ。
「どうしてそれを知っていて、調査の依頼なんて出したんだ?」
「それに答える前に、私の話を聞いてくれませんか?」
「……ああ」
にこり、と。
椅子から立ち上がり、一歩踏み出した。
「私はそもそも、この家の本当の娘ではありません」
弱々しく足を引きずって。
「お客様に気に入っていただく為の生きた性玩具……。この家の商品として拾われてきた孤児、それが私です」
人身売買の類は禁じられている――表向きは。
「愛されて、可愛がられて、育まれた私は自分の幸せを信じていました。あの日までは」
あまりにも自然に笑うそれは、仮面であることを忘れてしまった様で。
「初めてお客様の相手をさせられた時、私は何の為に拾われたのかを理解しました。薬で浮かされた体と頭は初めてをすんなり受け入れてました」
潤んだ瞳は媚びを売る為の手段に過ぎない。
「怒りや恨みを抱くよりも先に、私は私を受け入れました。気持ち良いのですから、それでいいとさえ思っています」
艶やかな唇は劣情を誘う為の手段に過ぎない。
「ですが」
差し込まれた冷ややかな言葉。
「エメリアは私を憐み、そして両親を嫌悪したのです。我が身可愛さに私という生贄を提案したのは彼女自身だと言うのに」
「エメリアの……両親……それは――」
「彼女はアリス。アリス・ヴァーシュス。それが彼女の本当の名前です」
前提が全て覆る。
そうであるなら、エメリア――アリスが自分に話した言葉は。
「嘘」
心情を言い当てられて顔を上げれば、目の前に名前のない少女が立っていた。
「アリスは両親を殺した後、自分の命も絶つつもりでした。私に全てを押し付けて、全て捨てて、楽になろうとした。逃げようとした。そんなの、許さない」
深く腰掛けた体はぴくりとも動かず、少女の澱んだ瞳を見つめ返すしか出来ない。
「私が男に抱かれる事でしかこの家を守れないという現実と自分の無力を、逃げ出したいはずの私の一番近くで見続けるしかない……。私に生涯を捧げると誓った彼女は、嘘の上でしか真実を認められない。憐れでしょう?惨めでしょう?」
「アンタの目的は……」
少女の香りが濃密になるほど距離が近くなる。
「私の復讐を誰かに知っていてもらいたかった。それだけです」
胸元に添えられる手を振り払えない。
膝元にかかる体重を拒めない。
「失礼ですが、お送りした電脳通信に電子ドラッグを仕込ませて頂きました」
「電子ドラッグ……?」
「効果は【私が欲しくなる】、その程度のものです」
自分が正常でない事に気付いてはいたが、まさか防壁を掻い潜るレベルの電子ドラッグだとは思いもしなかった。
後悔と驚愕を瞬く間に別の感情が塗りつぶしていく。
「茶番にお付き合いさせて申し訳ありませんでした。調査依頼は達成として報酬を振り込ませていただきますが――」
衣擦れ、こそばゆい感覚。
「この呪いを抱えていただくには、それでは足りないと思いませんか?」
囁き、耳元を撫でる感覚。
「ですから」
人肌、痺れていく感覚。
「【現物支給】、如何ですか?」
暗転、理性を焼き切る感覚。
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雨の降る夜。
コンクリートに跳ね返る水滴は普段の喧噪に溶け込んで、高架下に群れる水蒸気は音を立てながら上へ上へと向かう。
それらを横目に眺めながらネオン街から路地を四つ跨ぎ、乱雑な看板が並ぶビルの地下へと向かう階段を下りる。
「いらっしゃい」
旧式の義体が僅かに軋む。
剥き出しの目が来店者に向けられるが、男は慣れたものでカウンターの端の席に座った。
「注文は?」
「あー……。軽めのをお願い出来る?」
机を一つ挟んでバーテンダーは滑らかな手際で作り始める。
外の雨音は店内に流れる公共放送の音に掻き消され、グラスに落ちる氷の音がすっきりと耳に届いた。
「ほらよ」
フルフェイスの男はグラスを手に取り、どの様にしてか口に含んだ。
「煙草吸っても?」
「好きにしろ」
灰皿を受け取り、旧式のライターで火をつける。
二度、三度と煙を楽しんでからマスターの視線を受け止めた。
「それで、俺に紹介したい仕事って?」
「――」
無言で届いたのは電脳へのアクセス申請――承認する。
シンプルな封筒のGUIが開かれ、中から数か月前に起こったある殺人事件の記事が浮かび上がる。
「この事件の調査依頼だ」
【ヴァーシュス家当主殺害】
資産家であり、投資家でもあるヴァシュース家の当主とその妻が殺害されたという事件は一度は話題になったものの、既に過去の出来事になっている。
風化する早さが不自然なまでに。
「えぇ……」
男の言葉には拒絶の意志が込められていた。
「あのね、今更でしょ?こんな明らかに面倒なヤツを好んで受ける様に見える?」
見えない、が――この男は気付いたらそういう面倒なヤツに関わっているか巻き込まれているか、そのどちらかだ。
「指名依頼という訳じゃない。別の管理ブロックの事件で面白そうなのがあったから出してみただけだ」
「きな臭そう、の間違いじゃないの」
不可解な事が多すぎる事件と整合性の取れない状況証拠が有り過ぎて、誰かが嘘をついていなければおかしいとまで思える始末だ。
「そうだな。忘れてくれ」
封筒が折りたたまれて消去される。
それを見届けて、二人の会話は途切れた。
「二杯目いい?この店で二番目に安い酒出してよ」
「特別手当くらい請求しろ。そんなだから貧乏探偵って呼ばれるんだろうが」
「俺をそう呼んでんのはマスターくらい……だよな?」
「さあな」
「何?俺ってそんな貧乏そうに見えてる訳?」
小声は公共放送に紛れていく。
自問自答する探偵から視線を外し、ガラス窓の外を見上げた。
そろそろ雨は止みそうだ。
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【Who is Liar】
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