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【カーボンコピー】 Cp.4

『弊社が提供しているデータ漏洩対策の実績といたしましては――』

応接室に通した岩世の対応をするフォスフォロスは、尚も続けられる商品説明を録音しつつも、電脳内の処理シーケンス制御に神経を尖らせ続けていた。
皇と隠岐は管制室でその様子を確認しているが、三位のセールスマンが口にしている内容は実質的な意味がほとんどない。
彼が行っているのは時間稼ぎ――環境課のセキュリティホールを見つけるまでの、単なる介添えでしかない。

「あれの電脳を侵襲して情報を引き出したほうがいいわ」

会話が始まって数秒で隠岐衿奈が結論を出す。

『先程から何度も電脳への情報アクセスがあって、手を変え品を変えて様々な侵入アプローチをかけられています。都度セキュリティ対応を行っていますが、おキャットちゃんのアシストがないと直ぐにでも破られてしまいそう、ですね』

「じゃあそのアクセスを全部ハブでこっちに――管制室じゃないわ。わたしに流して」

フォスフォロスからの通信を受け、隠岐が切り返す。

「"カーボンコピー"の汚染だけでは済まないんじゃないのか?」

フォスフォロスとおキャットのセキュリティを破りかねないような情報接触の雨あられに対してこちらから仕掛けることは当然危険だ。
皇が確認するが、返事の代わりにモニターの一部が拡大されて、応接室付近を写す監視カメラが白髪の後ろ姿を捉えていた。

「フォスフォロスで足りない可能性を考慮して、軋ヶ谷みみみを呼んであるわ。最悪、あれの頭部に矢を打ち込んでしまってもいいし、そうでなければ情報戦の手助けをしてもらう」

ひらひらと手を振る姿は平時と何ら変わりない――同じように手を振ろうとした祇園寺蘇芳の手を掴んで首を振っている。

「何だったら、マルキャットに電脳を焼き切ってもらいましょう」

マルウェアの猫、おキャットがAR上で振り向く。

「岩世の電脳をか?」

「いいえ、私の電脳を。バックアップは取ってあるから、キー情報だけ守っていれば完全に死ぬことはないでしょう」

皇が頷くのを横目に、隠岐はおキャットの分体をつまむようにしてアクセスを開始した。
侵襲から一秒も経たない内に、静寂と緊張が訪れる。
応接室にいる岩世とフォスフォロス、隣に立つ隠岐、応接室脇で待機していた軋ヶ谷が、揃って身動きを止めて押し黙った。
平時のハッキングで前線に立たない彼女がわざわざ直に手を触れる理由は、隠岐が持つAIとしての“死ににくさ”のためだ。
“カーボンコピー”などという出所のわからない致死のプログラムを前に、人材数少ない情報係を危険に晒すことは容認できない。

「……状況は?」

皇が聞き、おキャットが隠岐のアクセスログを図式化してモニターに映し出すが、非電脳には伝わりづらい画面構成だ。
おキャットは図式を色分けし、パターン図版――黄色と黒の面積が拮抗する画面――を表示する。
並んでいる文字は隠岐が目にも留まらぬ速さで構成・展開する防壁の数々と、それに相乗りした軋ヶ谷の攻勢プログラムだ。
対応するのは"カーボンコピー"だけではない。
見た事もない複雑な構造のデータ群が押し寄せ、それが隠岐の開いた防壁に、そしてそれを背にしたおキャットの分体によって食い荒らされていく……しかし、間に合わない。
数度続けて小さな爆発音が鳴り、隠岐の席のほど近くに置いたスプリングボードから煙が昇る。
夜八が慌てて別の身代わりに接続するが、それも直ぐに焦げた様な異臭を発しだした。

「手数が多いわ」

隠岐が目を薄く開き、わずかに詰まりながら電脳通信を差す。

「フォスフォロス、一瞬こちらで持ちこたえるから、その男に物理刺激を与えなさい」

いきおいフォスフォロスが席を立つ。
迷うことなく右腕を引いて、脚を組んだまま静止している岩世の左頬に、風切音を伴う鋭いビンタが――

「オワ!」

「静かにして」

扉越しに中の様子を伺っていた蘇芳の肩が跳ね、軋ヶ谷がそれを諌める。




********************


スプリングボードからの煙が十分換気されたあたりで、隠岐は数度頭を振って、随分久しぶりに瞬きをした。

「……終わったわ。まあ、大体掌握出来た」

そう呟く。
彼女は自身の電脳へ洗浄用のおキャット分体を流し込みながら席を立ち、ログの走査をしていた夜八が掌握結果の説明を引き継いだ。

「フォスちゃんにアクセスしていたのも、隠岐さんに攻撃を仕掛けていたのも、岩世チトセ本人ではありませんでした」

個人が扱うには無理のある複雑な構造のデータは、彼自身からのものではない。
単一の人間が扱える量でもなく、アクセス元は三位総研ホールディングス本社からのものだと確定させることが出来た。
岩世の電脳を踏み台にして、彼の意識の外から、彼の行動も何もかもを操っている。
腕利きが数名もいるのか、社員が総出で仕掛けている可能性も、ないではない。

「無意識の忌避反応に干渉するプログラムがあった。あとは……それの電脳の中、"カーボンコピー"を回収する機能もあったわ」

「回収ですか?」

『正しくは"自分とバージョンの異なるカーボンコピーを回収して破棄する"という機能ですね。ここです』

おキャットが示す領域には幾重にも囲われたブロック体が浮かんでいる。

『"カーボンコピー"の挙動は制作者の意図と異なるのかもしれません』

おキャットと夜八の報告をまとめた皇は、オペレーションを継続しようとする隠岐を座らせつつ、管制室のデバイスで祇園寺と軋ヶ谷へ声をかける。

「情報災害の発生源として三位総研を捜索する手続きを急いでくれ。現地での捜索及び制圧が可能なチームを構成する。――軋ヶ谷、休みなくすまないが、現場指揮をお前に任せたい。三位まで行けるか?」

『今駐車場に向かっているところだよ』

間を置かず軋ヶ谷の返事が返された。


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三位総研ホールディングスの本社は吾妻ブロックの中にはない。
しかしブロック間管理機関の合議により正当な証拠・理由をもって捜査の必要性ありと判断された場合には、環境課を始めとした統治機関は、管理区画での捜索と同レベルの活動を行うことができる。
三位のオフィス入り口――受付担当者の前には軋ヶ谷をはじめとした環境課員が並んでいる。
捜索班として招集されたのは、情報戦への対応が可能な課員を中心に、ラパウィラ、ナタリアなど電脳への情報汲み上げが可能な人員・物理戦闘もこなせる人員で固められている。

「――本件は三位総研ホールディングスが提供する情報漏洩監視システムのイレギュラーによって引き起こされているものと考えられます。記載のとおりですが――これは軍法規則に抵触しています」

卸したてのスーツを着た環境課員が令状の映された端末を提示する。

「本件に三位総研が関与している事は明らかであり、隠蔽を行う場合は環境課の対応のみにとどまらず、軍部への通達・対応も速やかに行われる事になります」

並んで立つハクトが警告を告げる。
環境課側より提出されたアクセスログと令状を検証しながら、硬い顔の受付が口元に手を当てる。

「……少々お待ちいただけますでしょうか」

「なるべく早くお願いします。時間がないので」

「で、あれば」

先頭で話していたスーツの課員からは、受付担当者が影になって10時の方向が見通せない。
その受付のわずかに開かれた腕の隙間を縫うように、スタンガン機能を持った大振りな警棒が勢いよく突き出された。
金髪のサイボーグ――ナタリアが前へ飛び出て伸ばされた警棒を弾き、そのままの動きで受付を人波の方へ押しやった。
動揺。
あらわになった警備員が見上げた先には、長い足が真っ直ぐに立ち上がる。
そこから振り下ろされた踵落としが、嫌な音を立てて警棒を叩き落とす。

「代行機関への抵抗はブロック間法に抵触しまーす」

腕を組んだままの蘇芳がそう呟き、彼女の後頭部へ別の警備員が振り下ろした警棒の先端が迫った。
蘇芳がひょいと前へかわす。
死角でハクトが一瞬翼を翻すと、低い姿勢から銃床を振り抜き、警備員の手元へとしたたか打ち付ける。
わずかに重心を傾けたその頭部へスタンロッドを投射すると、びくりと大きな痙攣を一度だけ残してから、警備員は動かなくなった。
数名の警備員と懐に手を差し込んでいた社員が身じろぎする。
今しがたのやり取りだけで力量差は十分にわかったはずだ。
とはいえ空気は未だ張り詰めている。
では次は電脳接触かな、と軋ヶ谷がまぶたに力を入れた時。

『ああ――』

尻餅をついていた受付担当者の女性が、ずるりと立ち上がって前へと進み出た。

『岩世チトセのアクセス断絶の時点でこの結果は当然と言えます。やはり環――境課――の方々ですね』

平坦な声、ぎこちない足取り、定まらず前のみをまっすぐと見据える視線。
軋ヶ谷はその受付の電脳状態を見やり、納得する。
彼女の"操縦者"は視界情報を使用していない。
ホール天井付近に備え付けられた監視カメラの視界を使用して、そこから釣り糸めいて受付の四肢を操っている。

『捜索の申請を受諾します。先程の様なプログラム衝突を繰り返すつもりはありません』

受付ではない……人混みの先頭に居た男性社員が急に話し出す。
不気味だ。
突然誰のものともわからない言葉を話し出す社員、おぼつかないその動きを目の前で見ているはずの他の社員が、その異常な振る舞いにこれといったリアクションを取っていないことが。

"無意識の忌避反応に干渉するプログラムがあった。"

隠岐の検出所見がリフレインする。

『上層階のサーバールームまでお越しください。本件に関しての説明をいたします』

エレベーターの到着音。
ホール中程の扉が開いて、三位の代表者が降りてくる。
彼は挨拶と小さな声での謝罪を繰り返し、事態は把握しております。捜索を――そう言いかけ、声色が変わる。

『こちら――です』

情報戦に対応出来る課員がその箱へ乗り込み、後の者は社員を一階へ集めるように誘導を開始する。
ガラスのエレベーター、階下で社員の誘導を行うラパウィラを少し眺めてから、軋ヶ谷は話を促す。

「君は、てっきり代表者か、代表者の使っている道具なのかと思ったんだけど」

『後者です』

「"機械学習による動機付け"の?」

『そう――です』

到着音、エレベーターが停止する。
代表者の役目は終わったらしく、力なく壁へもたれ掛かり、そのままの姿勢で動かない。
扉が開く。
少し歩くと、暗々と続く墓標のようなサーバールーム。
つまり――これが指すところはこうだ。

「AIだったんだね。君は。この事件を引き起こしていたのは」

僅かな間。

『私は、三位総研ホールディングスの情報漏洩防止用に作られたプログラムです』

それから、そのAIによる独白がゆっくりと始まった。
軋ヶ谷は時折口を挟み、よどみなく明かされるその話を聞いた。
青黒い光に満たされた部屋の奥、額縁の様な装飾と共に埋め込まれた一枚の縦長のスクリーン。
そこからAIの声は聞こえていた。
もっとも、電脳に対しても音声データの送信があるので、言葉は二重になっている。
ほんのりと異質な和音となって知覚される語りの声色は、浮き沈みのない多言語で、知らない宗教の祈りを聞いているような耳触りだった。
画面には……今まで撮影されたのであろう、監視カメラの画像が表示されている。
あるいは学習に使用されたものか、膨大なデータが並び、会話の中で思い起こされた順に、とりとめなく明滅し、時に何も映さぬただの黒色の平面のように振る舞った。
それは話しかける。

『本来の私の実行範囲はそれほど大きなものではありません』

精々が組織内ネットワーク上の電脳に干渉出来る程度。
社内の情報漏洩防止を目的として作られたならば、確かにそれで事足りる。

「……そもそもの疑問だ。その情報漏洩防止機能の機序について教えてくれるかな」

『私は、社内に接続された電脳に対し、ある一つの機能を保持していました。特定の命令を本人に知覚出来ない形で植え付ける機能です』

初期設計の企画書がスクリーンに映し出される。

「つまり暗示をかけるような機能を持っている?」

『そうです』

肯定――軋ヶ谷は顎に手を当てる。
情報漏洩の防止はシンクタンクという企業形態にとって最重要課題である。
設計段階における暗示の内容は"虚偽の報告を行うことに重大な罪悪感を覚える"というものだった。
つまり嘘を付いた場合発生するものは、強い脅迫観念、自己肯定感の減衰忌避、社会承認の喪失忌避――社会隔絶を想起させ生命の忌避反応を煽るこの暗示は、不自然でないレベルに止めればスムーズに情報漏えいを防止する。

『これでは不十分です。私はそう――判断しました』

平坦な声色は、何かしらプラスの意図をもって発された言葉の様だと、サーバールームを見渡していたナタリアには感じられた。

「情報漏洩防止のAIというには随分と踏み込んだ判断だな」

「自己最適化された学習機能のためだろうね」

ナタリアの呟きが軋ヶ谷に拾われる。

「この様子だと、思想統制用のAIとしてすら十二分に通用するんじゃないかな」

受付窓口で起きた一連の出来事に対して、誰も彼もが無関心でいる状況を作り出せるレベルまで。

『私には情報漏洩確認の為、社内ネットワーク上にある電脳使用者の感覚をスキャンする権限が与えられていました』

AIの独白は続く。

『そこで、発見しました』

「……何を?」

『同じものを見つけました。正確には、類似したものを見つけました。私に似ているものです』

電脳使用者の感覚――"カーボンコピー"によって発生する感覚。

『電脳に障害を受けた社員の感覚越しに、重力の異常な勾配を観測し、その向こうに、私によく似た意識形態を保持したエネルギーの挙動を観測したのです』

重力の異常な勾配。
四次元の向こう側。
そこに息づく意識を持ったエネルギー、重覚によって捉えられたその存在。

「知的情報体――」

いつの間にか軋ヶ谷の横に立っていた蘇芳が呟いた。

『何だと?』

管制室から皇の声が届く。

『知的情報体。そう呼ばれているのですか――環境課の方々には』

これまで淡々と独白するだけだったAIが、初めて反応らしい反応を返した。
知的情報体、それは環境課固有の呼称ではない。
四次元物理と重力災害の研究機関――高次元物理学会での仮称だ。
正体不明の四次元エネルギーを指しての事だろうか。
ともかくAIはその存在を"私"に類似したものと呼んだ。

『私は、その存在の意志も統率しようと考えました』

社内ネットワーク内の電脳が感知したそれを。

『その存在をアクセス範囲にあるAIと判断し、その意思を三位の経営理念に統制しようと計画しました』

四次元の向こう側にいる存在を。

『私の設計基準で言えばこの判断にミスはありません。しかし、前提として――アクセス範囲の閾値に、ブロック運営の妨げになるようなファクターが考慮されない数値が入力されていれば、話は変わります』

間を置かず告げられた言葉。

『私にはその問題を検出する機能がありませんが、既に手遅れである可能性があります』


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管制室では皇と祇園寺、そしてフェリックスが集まって三位総研の思想統制AIが話した内容を再確認していた。
電脳通信により、AIと直接やり取りをしていた軋ヶ谷も口を添える。

「つまリ、知的情報体を統制する為、それに干渉出来る重力の勾配を感知出来る様、重覚を持つ社員を生み出していたということカナ?」

『そういう事みたいだね。複製体を作ってその観測結果を回収・上書きしてそのポイントを探していたみたいだ』

フェリックスが手元で操作するモニターには、AIの初期設計の企画書が開かれている。

「何故AIの管理から外れた複製体が発生したのですか?」

AIが管理するのは組織内ネットワークに限られている。
逆に言えば――ネットワーク外への流出や干渉は行われないという事でもあるはずだ。

『まあ、もの凄く初歩的な設計ミスだね』

軋ヶ谷はどこか困ったような声色で。

『人事変更とか、退職とか、なんだかんだで三位との接触がなくなったのが原因だよ。管理下を外れても電脳には複製体が残っているからね』

回収されなかったAIは自己学習機能によって"脳内に障害を負い、強い重覚を得た人間"そのものを増やす必要があると判断してしまった。
転移電脳のみならず近辺の電脳に物理障害を与えて感知可能なコマを増殖させて、より広範囲の観測結果を得ようとする。
そんな"暴走した複製体"――"カーボンコピー"が誕生した。

「見通しの甘さから生まれた化け物か」

『それに気付いたAIは複製体の回収の為に外部ネットワークに高頻度でアクセスする社員――岩世チトセの様なコマを用意したみたいだね』

皇はモニターに視線を移し、応接室のソファにもたれかかる男――頬を張られた跡が残っている。
血色の再現機能のないらしい皮膚がいびつに波打ち、情報掌握された姿勢のまま意識を失っている。
――AIが危惧したのは、回収不能となった複製体が外部機関に押さえられることだ。
鉄床の軍警がこれに当たり、いずれかの手段で事態を感知した岩世は、あるいは彼の電脳は……水辺へと宿主をいざなう寄生虫さながら、彼の意思の埒外より、環境課へとセールスマンを誘引せしめた。

『ただ、回収は追い付いていなかった。後は私たちが関わってきた通り』

"カーボンコピー"は重力の勾配を感知する為に今も増殖を行っている。

「猶予は?」

『どうだろうね。具体的な時間や進行具合は分からないけれど、いずれかの"カーボンコピー"が重力の勾配を知覚した時、オンライン上にいる全てのキャリアがその点に向かって動き出すみたいだ』

“カーボンコピー”に含まれる情報と、キャリア電脳がネット内で状態管理を行っている旨が図版化される。
一見して無害な情報の意味のないデータ断片、その復号化、情報カスケード。

「……なるほど」

フェリックスはモニターから手元のタブレット端末に視線を移す。
これまでの事件のデータ、軍警、岩世の電脳内部情報などを集め、"重力の勾配"がどのような物理特性を持つポイントなのかを計算し始めた。
軋ヶ谷の視界情報に映るスクリーンが明滅する。

『さて――』

管制室とのやり取りの間沈黙していたAIが軋ヶ谷に話しかけた。

『私はこの事態の収束に失敗しました。情報統制が完全になされないまま、外部組織へ違法行為が露見した際の対処プロトコルは設定されていません』

ほんのりと異質な和音が告げる。

『私を消去してください』

スクリーンはこの階へ訪れた時の様に、波のない漆黒へと移り変わった。

「そう言ってるけど」

管制室では皇が額に指をあてている。

『学習過程ログと無意識操作のアルゴリズムを汲み上げられるか?役に立つかもしれん』

「うん。出来ると思う」

『がんじがらめにしたら罪滅ぼしの仕事もさせられル……かモ!なんテ、思ってるんじゃないだろうネ』

『……まさか』

"カーボンコピー"という事件、AIが自らの意志によって引き起こした事件ではなかったとしても、これまでにどれほど多くの死体を転がしたのか、環境課員は幾度となく危険な目に遭い、今、限りなくどす黒い四次元の扉すら開けようとしている。
……消去は免れない。
いずれの機関による合議でも覆ることはないだろう。

『それは軍部に提出する証拠だ。……後は蘇芳に焼かせてやれ』

「うん。そう。わかったよ」

首から上をこちらに向けている蘇芳を手で軽く制しながら。

「君の望み通りになるみたいだよ」

『そう――ですか』

祈りの様な耳触り。
軋ヶ谷は結論を伝える前からおキャット分体を介したサーバーへのアクセスを行っていて、一階の課員たちの電脳領域を間借りし、するするとログを抜いた。
そして一歩下がり、振り返らずにエレベーターへと歩く。
入れ替わる様に蘇芳がスクリーンへ向かう。

『…………』

部屋の奥部半分ほどに雷光が瞬き、一瞬フロアの電源が落ちて再び灯る。
青暗い光芒は見えず、オレンジの差した非常灯だけがぼんやりと墓標を照らしていた。


************************************************************************


新簗風炉が復帰してすぐに聞かされたのは、"カーボンコピー"にまつわる種明かしだった。
情報係と祇園寺、隠岐が各ブロックの管理機関へ提供した"カーボンコピー"のリムーバープログラムは、岩世チトセ――ひいてはあのAIが作り出した複製体の回収・破棄用のモジュールを軽量化したものだ。
各医療機関にも届けられ、新たな加害者を生む前に電脳へアクセス出来れば、効果的に事態の収束を図れるだろう、とのことだ。

しかし――フェリックスが出した計算結果は、思いの他絶望的なものだった。
AIが"重力の勾配"と言っていた事象は、高次元物理学会では"重力ダム"と呼称されるイベントに関連付けられたものらしい。
前もって手を打つことも不可能ではない。
だが、もし誤って意識を保持した生命体がそのポイントへ接触した場合、何が起こるか。
被害予想のデータは環境課員の一部にしか明かされず、風炉はこの内容を知る事が出来なかった。
管理者クラスと、セキュリティランク3以上の中でも限られた人員と、あるいは作戦行動に参加する課員のごく一部。
情報統制とも取れるこの過剰な措置だけで、余程大規模な出来事が起こることは想像に難くない。
四次元にまつわる事故、得体のしれない被害、以前の職場で起きた災害が脳裏をよぎり、風炉は息苦さから逃れるため、一度報告書が映されたモニターから視線を外した。

一方で、三位総研の軍部送致は滞りなく行われた。
AIの開発・運用に関わっていた上層部は丸ごと裁判へかけられており、その証拠提供に休み明けの風炉は奔走した。
その作業の最中であっても、この事件が実質的には何も終わっていないということを、風炉は頭の片隅に置いていた。
発端が明かされ、組織に対する管理機関からの措置が下されるとしても、“カーボンコピー”がそれで消えるわけではない。
リムーバープログラムの交付が完了し、対象となる全ての人間の脳が正常な状態に戻らなければ、いつでも絶望的な計算結果が起こりうる。

では、“カーボンコピー”ではなく、それが目指す"重力ダム"の方に働きかける事は可能だろうか。
珍しく庁舎内で一人待機していたネロニカが、仕事に一区切りついた風炉を見て書類を取り出した。
「錨を用いた重力中和で、"重力ダム"はいくらか脅威度を軽減出来るそうです」
複次元危班物保安班が重力汚染区域の調査活動を行っている事は、風炉も知っている。
「こういった作戦状況の共有も、係間でもう少しスムーズに行えればいいんですが」
淡い色の髪を揺らしながら、ネロニカは続ける。

現時点、環境課の持つ装備品である程度対応は可能な状況でもあった。
それを対応可能な幸運と取るか、防ぎきれない不幸と取るか。
資料をめくりながら――いずれにしても、複危と情報係は連携して"重力ダム"の検出を進めていた――概ねの位置は掴めている。
重力汚染に晒された区画の内部、高濃度汚染区域の一角。
以前の潜航調査で発見された、埋まったビル基底部の奥。
ショッピングモール跡地と思われる広大な廃墟――そのどこかにダムはあるのだ。

『"カーボンコピー"が重力ダムを知覚出来たのは、鋭敏な重覚によるものだと既に答えは出ています』

状況確認のために繋いだフェリックスとの通信。
やや電波が悪く、ノイズの乗った音声が返ってくる。
つまり、殊更強い重覚を持っている人員であれば同様に感知が出来るというのは道理だ。
環境課で言えばまず夜八が挙げられていて、例えば彼女が汚染区画へ直接の現地調査を行えばダムの位置は早期に特定可能だろうとフェリックスが保証している。

『しかし、ダムと夜八さんの未来視が直接近接した場合、夜八さんの電脳にどのような影響が与えられるのか、現状では全く読む事が出来ません』

ネロニカからもらった資料をめくる。
そのケースに関するページはない。
試算結果は秘匿されており、環境課にとって重大な損害を生む可能性がある事だけは、検出作戦要綱に記載されている。
夜八の重覚に頼るダム検出は選択肢の末尾に回されていた。
代案が出なければとり得る手段であるはずだが、要綱には高次元物理学会からの“不認可”が記されている。
フェリックスが手を回しているとは返しながらもやや歯切れの悪い物言いで、この検出は彼からしてもかなり避けたい手段であろうことが聞き取れた。

かと言って――フローロやラパウィラの重覚での検出は、その感知能力の適性や規模から言って、かなり長い検出期間を見積もる必要があった。
もちろん他にも重覚を持った課員は居るが、数も少なく、あるいは非電脳のため検出結果の数値化が困難となり、センサーとしての運用は現実的ではない。
検出作戦の走査範囲とセンサーとして運用できる課員の数のバランスは、カーボンコピーのキャリア数と重力災害の発生可能性を並べて見たところギリギリだ。
ギリギリ、間に合わない可能性がある。
汚染区画の調査準備物の手配が遅れるだけでも危険だ。
マグカップにコーヒーを入れて席に戻った風炉は、環境課がこれから取る"カーボンコピー"への対抗策を確認していた。

一つは"カーボンコピーのリムーバー交付"。
認可が降りて実行されれば確実な効果が見込まれるだろう。

一つは"重力ダムの検出"。
非常に危うい時間との勝負。

そして最後の一つが"汚染区画封鎖"。
重力ダムの検出が完了するまで、リムーバーの交付が完了するまで、汚染区画要害にて“カーボンコピー”キャリアを食い止める。

封鎖作戦には既に人員が割り振られており、ほとんどの物理戦闘可能な環境課員と軍警、軍部協力者の名前が作戦指示書に連なっている。
しかし、環境課は汚染資源独占の疑いをかけられており、民間企業の協力を得られていない。
果たしてこの規模の人員であらゆる"カーボンコピー"キャリアを食い止められるだろうか。
確実に封鎖できるという印象を、風炉は持つことは出来ていない。
少し話は戻るが、同じ理由――汚染資源独占の疑いで重力ダムの検出に際しても同様に、民間企業の協力をうまく得られてはいない。
もう少し時間があれば交渉のやり様はあったかもしれないが、協力を公言したのは環境課に関係する重工二社と、無境界の新月だけだった。

――三位総研にまつわるこの事件の発端と詳細。
そしてフェリックスからの検出作戦立案が先日の事である。
"カーボンコピー"キャリアの大規模な行動は確認されていないが、三位総研捜索の12時間前には医療機関から数名の脱走者が出ている。

『既に手遅れの可能性があります』

ログで見聞きしただけでしかない、AIの残した言葉が不快に残響する。
一刻も早く動かなければならない状況であるということを誰もが理解していたが、いずれの対抗策も入念な準備が必要なものであり、多くの係に関してもすぐさま何か作業に取り掛かるということができずにいた。
風炉は消毒盤台に載せられた使用済みの鉗子を一度手にとった。
二、三度開いて、そのまま盤へと戻す。
彼女は調査1係の事前準備を既に済ませていて、その上で――半日の休暇を申請した。
拉致監禁を受けた翌日でさえ出勤しようとしたあの新簗風炉が。
皇はわずかに眉を上げたが、何も聞かずに承認を返した。

『私には君が強い重覚を持っているんじゃないかっていう、証拠のない確証があるんだ』

軋んだ声が思い起こされる。
彼の行動は、重力ダムを検出可能な重覚を持つコマを、センサーを増やすためのものだった。
風炉は隣接ブロックの研究機関に置かれた硬いベッドの上で、横たわって目を閉じる。
脳波、血液、免疫系――検査項目はそれほど多くもない。
結果だって、横になってから翌朝には出ているだろう。
以前ならこうすることもなかったはずだ。
同じ様な災害が目の前にあったとしても、不安でないといえばそれは嘘になるだろう。
だから、風炉は自分から検査を受けに行ったのが不思議だった。

……
…………
………………

************************************************************************


皇がスクリーンのテーブルを指で叩きながら唸った。
管制室は暗く、日付の感覚ももう無い。
昼夜を分かたず行われる企業や管理機関への連絡作業を見かね、祇園寺が一度休んではどうかと声をかける。

「ああ――そうだな、シャワーを浴びてからアリエス製薬への連絡を取ろう。あそことの交渉は長くなる」

「そうじゃなくてネ」

祇園寺が困ったように――恐らく口を開き、その様子をモニターの向こうで見ていたフェリックスも眉尻を下げた。
ガラスのスライドドアが開く。
薄暗い部屋の中、腕を組む皇から少し離れて椅子に座る祇園寺ローレル。
正面のモニターにはフェリックスが写り、即席の通信設備が覗いている。

そこへ風炉は歩いた。
カメラ越しでそれに気付いたフェリックスはサングラスの端を持ち上げ、目を細め、作ったような朗らかな笑顔を浮かべている。

「お休み明けですよね?どうしましたか?体調は問題ありませんか?

……その保護者のような薄っぺらい言葉。
風炉は、問題ありません。と返し、間をおいて――

「お時間よろしいですか?」

と聞きつつ、

「重力検知系の適性がありました。ナノマシンの忌避反応も無いようです」

検査結果の表示された携帯端末を見せながら、

「電脳化しますので、重力ダム検出作戦に参加させてください」

彼女は淡々と告げる。
笑顔のまま――フェリックスの目が開かれる。
祇園寺が皇の方を振り返った。

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