【平穏を享受する為の心得】
「ここが、ホテル・カデシュ……」
青年――エイル・アーデンの眼前には一見すると豪奢な高級ホテルが聳え立っている。
ニューヨークの街中に溶け込みながら、理解していれば確かにどこか雰囲気が違っている様な。
伝えられていた時間より早く到着していた自分の後に続いて、何台ものタクシーが入り口前に並び始める。
車から降りてきた人々は、明らかに異様だった。
これから宿泊をするとは到底思えない風貌、身に纏う雰囲気は普段眺めている一般人とは一線を画しながら、警戒心の強弱の差がそれに拍車をかける。
「こんばんは」
「はい、こんばんは」
殺伐とした空気を想定していたエイルは少しだけ拍子抜けして、そして戦慄する。
映画やドラマにある様な、互いの利益を食い合う相手への分かりやすい牽制は実のところパフォーマンスでしかない。
もっと淡々と、粛々と、利用できるのならば利用してやろうという狡猾な探り合いが常に行われているという事実。
緑色のドレッドヘアの男性と、アロハシャツを着た男性の会話が耳に届く。
当たり障りのない商談の様であり、互いの立場や状況を探る牽制の様であり、笑顔と、明るい声と、弱々しい声と、それらの裏側に本心を隠しきった会話であると感じた。
そして――
「遅れてしまいました……」
この場と時間に似つかわしくない子供の声。
それが当たり前のように受け入れられている様を見て、小さく背筋を伸ばした。
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「……—―にお部屋を予約したいのですが」
「かしこまりました。それでは、こちらを」
手渡されたのは一枚のコインだった。
恐らくは入場券の様なものだろう。
手に重量以上の何かを感じながら廊下を歩き、視線の先に一体の像を見つける。
「総支配人……」
階段の隣という、全く目立たない場所に置かれている理由はあるのだろうか。
少なくとも自己顕示欲に溢れた人物でないのは確かだ。
今回の取材の件もだが、多種多様な裏社会の組織を招き入れている事も合わせて、随分寛容である様にも感じられる。
「マクシミリアン・シルバーフォーン」
名前を口にして、今夜中に機会があれば感謝を伝えなければと思いながら振り返り、ふと人の気配がほとんど無くなっている事に気が付いた。
廊下を見れば誰もおらず――否、一人いる。
備え付けのソファに横たわる一人の女性――ホテルスタッフの一人だろうか。
「失礼、少々よろしいでしょうか?」
「ん?」
「会場へはどの様に向かえば?」
「あ~、分かりにくいわよね」
立ち上がった糸目の女性にエレベーターへと案内される。
「フロアを見ていたら迷ってしまって。助かりました」
「気をつけなさいよ?」
会釈をし、エレベーターのボタンを押した。
知らず知らずの内にコインを持つ手に力が入る。
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「……――ありがとうございます。それでは、良い夜を」
薄暗い通路でボディチェックを受けて進むと、扉が重い音を立てて開いていく。
その先には煌びやかなフロアが佇んでいた。
ドリンクを受け取って、カウンターの端に腰を下ろす。
辺りを見渡せば、随分盛り上がっている。
聞こえてくるのは商談であり、近況報告であり、それはオフィス街のカフェで耳にするものと大差無いように感じられた。
「いや……」
違和感。
それは周りではなく自分自身に向けたものだった。
表社会の常識は裏社会において非常識である、という先入観。
価値観や倫理観が違えど、彼らが行っているものは人対人の会話でしかない。
内容は、口にするには憚られるものが多いが、この場のおいて日常会話の一つなのだろう。
「すみません。お隣、よろしいでしょうか?」
声をかけてきたのは白い女性だった。
見目麗しく気品を感じさせる佇まいだが、全身から緊張が漂っている。
「どうぞ」
「ありがとうございます。……ふぅ」
「お疲れの様ですね」
「本当は父と一緒に来る予定だったのですが、仕事が入ってしまって……。周りの人は、なんというか、少しお声をかけ辛くて、ですね」
それはそうだろう。
フォーマルなスーツに身を包む者が大半だが、数人はどう見ても日陰者だ。
楽しく歓談をする相手かと言われれば首を横に振らざるを得ない。
雰囲気こそ和やかだが、会話の内容は見ず知らずの者が気軽に踏み込める様なものではない。
まして目の前の女性は本来は付き添いのはずだったのだから尚更だ。
「それであの、御一人でしたので」
「そうでしたか。では」
グラスを手に持つ。
「ここでお話出来たのも何かのご縁でしょう。もしよろしければ」
「はい……!」
ほんの少しだけ緊張が解れた気配と共に、あまり音を立てない様に乾杯をする。
「お名前をお伺いしても?」
「エイル・アーデンと申します」
「エイルさん……。お仕事は何をされているのですか?」
「作家です。あまり売れてはいませんが」
他愛のない会話の中でいくつかの事が分かった。
彼女はファッションモデルであり、服飾バイヤーの父の付き添いで来るつもりだったこと。
裏社会の社交場は不安が強く、話しやすそうな相手を探していたこと。
「あまり良くないとは思っているのですけど……」
彼女の素直な感想は間違ってはいないと思う。
しかしその上で、何かの切っ掛けを求めているとも感じられた。
「表社会と裏社会は確かに隔絶されていますが、だからと言って話が出来ない相手ではないと思います」
「え?」
「同じ人間でしょう?倫理観は多少違うと思いますが……」
少なくともこの場にいる人々の安全は保証されている。
それはホテル内にいる間だけかもしれないが、余程の事が無い限りロビーから出た途端に何かがあるとは考えられない。
「そう、ですね。ありがとうございます!」
などと、無責任な事を言って送り出す。
罪悪感は無い。
明らかに表社会の人間と彼らがどう相対するのか興味があっただけだ。
幸か不幸か、彼女は受け入れられた様だ。
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「すいません、お代わりを頂けますか?」
「何飲むの?」
そこに立っていたのはエレベーター前で出会った女性だった。
「ウイスキーを」
「セキュリティの関係で在庫を絞ったのよ。ごめんなさいね」
「ではワインを」
「――はい、どうぞ」
糸目の女性を改めて見た。
「アンタ、ここは初めて?」
しかし何かを探ろうとする視線に気付かれたのか、機先を制する様に尋ねられる。
「ええ。総支配人にご招待頂きまして」
「総支配人に?すごいツテがあるのね」
「私ではなく私の上司に、ですけどね」
「ふぅん?普段は何を?」
「作家です。あまり売れていませんが」
一日に二度もこの言葉を使うとは思っていなかった。
「そう。火遊びのつもりか分からないけど、あんまりこんなところはお勧めしないわね」
「ご助言、ありがとうございます」
彼女の言葉は軽々としている様で、こちらの本質を即座に見抜いていた。
表社会の人間がここに来ることはあまり珍しい事ではないのだろうか。
あるいはそうなった人間を何人も見てきたか。
「そういえば名前を聞いてなかったわね」
「エイル・アーデンと申します。貴方は?」
「私は楊。同僚からはヤスナカって呼ばれてるけどね」
「ヤスナカ?」
「中国人なの。私の名前は日本語だとヤスナカって読めるらしいわ」
安中でヤスナカ、らしい。
「作家……作家ねぇ。どんな題材を書いてるの?」
「ミステリーを中心にいくつかですね」
「そうね……。何か面白い話でも出来たらネタの一つになるかしら」
少し考え込む。
「サメに頭をかじられたとか、サメにヘリを落されたとか――」
「えっ」
頭の中が疑問符で埋まる。
「お顔に傷は無いように見えるのですが……」
「あぁ。そういう特技なのよ」
どういう特技だ?
そうした会話を交えつつ、多くの事を教えてもらった。
コマンドメンツと呼ばれる十人が存在する事。
中級会員――恐らくは上級や下級に位置付けされる会員も存在する事。
ホテル・カデシュの成り立ちから、今では多くの外部組織との繋がりを持っている事。
探偵も在籍しており、彼女からならば面白い話を聞けるのではないかという事。
「楽しそうに話してるわね」
いつの間にか隣に立っていた女性が一人。
どこか煽情的なドレスを身に纏う立ち姿は一つの絵画の様だ。
「ソフィア。この子、作家なんだって。何か話のネタにでもなるようなエピソードがあればって話してたの」
「貴方の事なら大体ネタになるんじゃないの?」
聞いている限りはミステリーというよりアドベンチャーではあったが。
「私の書くミステリーは、もっと小規模で、リアリティがあって、淡々としたものですから」
なので売れていないのだ、と自己分析は出来ている。
「ふぅん……。それなら――」
「失礼します」
横からある男性が声をかけてきた。
「お話を聞かせて頂いたのですが、ミステリーということであれば私が人伝手に――」
ぐるん、と視界が回る。
「あるドライバーが運転中にラジオを――」
飲み過ぎた訳ではない。
「手相占いのお話でして――」
慣れない環境での緊張だろうか。
「運転中に手をじっと見てしまい――」
体は重く、思ったように動かせない。
「大丈夫?」
楊の声は遠い。
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「ふぅー……」
嘔吐さえしなかったものの、随分と疲弊してしまった。
会話を途中で切り上げてしまった事を謝罪する為にフロアに向かうが既に閑散としており、どうやら解散のタイミングだったようだ。
総支配人もフロアに顔を見せていたが、顔通りの列が捌き切れたとは考えにくい。
また次回があればその時に改めて挨拶出来ればと思う。
「お気をつけて。良い夜を」
「良い夜を」
ドアマンに見送られてホテルを後にした。
帰りのタクシーの中で考えるのはホテル・カデシュの異質さだ。
裏社会――法に照らし合わせればほぼ全員が悪党だ。
しかしあの場では全員が、イメージでいうところの悪党然とした振る舞いをしていなかった事。
それだけでホテル・カデシュの影響力は計り知れたとも言えるし、計り知れなかったとも言える。
表社会の【日常】となんら変わらなかったあの場所こそ、彼らにとっての【非日常】なのではないか――そう感じられた。
楊という女性から聞いた話はどれも表社会では見聞きしたことのないものばかりだったが、口ぶりから考えるに別段隠し立てされているものではないのだろう。
周知の事実だからと話してくれたのか、この程度知っておけという優しさだったのか。
あるいは、これ以上踏み込むべきではないという忠告だったのか。
「はぁ……」
何度も漏れる溜息に自分の疲労を自覚する。
見聞きしたものの刺激の強さもある。
だがそれ以上に、あの空間そのものが強烈に刻み込まれていた。
和やかに行われる歓談と、その裏側で画策される複雑な意志。
弾の込められていない銃を互いの眉間に押し付けあっている様な緊張感。
それを常として振る舞う彼らの在り方。
嗅ぎ慣れない、隣り合わせの死の香り。
「ふふ」
声が漏れる。
タクシーの運転手とバックミラー越しに目が合った。
未だ彼は、傍観者でしかない。
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