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50年前のITエンジニア ~2回目の海外長期滞在出張~

株式会社アイネの安永です。前回は台湾電力発電所システム稼働のお話をしたが(下記リンク参照)、今回はその続編である。

台湾電力発電所システム開発から約5年が経過した1975年のことであった。
一通の海外赴任の誘いが私の人生を大きく動かすこととなった。その内容は、台湾全土の電力供給を制御する巨大システム「パワーディスパッチシステム」の開発プロジェクトである。当時の日本では、電力会社を除いて手がけていなかった最先端のシステム開発を、米国L&N(Leeds&Northrup)社で外国人エンジニアとして担当することとなったのである。
これは私にとって2度目の米国赴任であり、今回は家族と共に約2年間ペンシルベニア州で暮らすこととなった。言葉の壁、技術の壁、そして文化の違いもあったが、この経験はエンジニアとしても、一人の人間としても、かけがえのない財産となったのである。
今回は、そんなプロジェクトの物語をお話ししたいと思う。


パワーディスパッチシステムの開発

プロジェクトの始まり

当初、この新しいプロジェクトの詳細については、全く知らされていなかった。当時の日本においてこのような電力系統のディスパッチシステムの開発は電力会社以外では行われておらず、一般的な理解や説明が困難だったためであると後になって理解することとなった。
ペンシルベニア州ノースウェールズのL&N社テクニカルセンターに到着し、マネージャーとの最初の面談で、このプロジェクトがディスパッチシステムの開発だと知らされたのである。マネージャーは分厚い系統制御理論の専門書を提示し、「これを勉強するように」と告げた。日常的な英会話やコンピュータに関する専門用語なら何とか対応できる自信はあったものの、この専門書は私の能力をはるかに超えるものであった。結局、その本は2年間の滞在中、机上で存在感を示し続け、次第に埃を被っていくこととなった。

システム開発の実際

L&N社での主な仕事は、既に完成していた標準システムを台湾電力の要件に合わせてカスタマイズすることであった。具体的には、系統規模、拠点数、各発電所の発電量、送電網での送電量などのパラメータを調整する必要があった。前回のプロジェクトでは、ボイラーのロギングシステムにアセンブラ言語を多用していたが、今回のプロジェクトではほぼすべてのプログラミングがFORTRAN言語で行われることとなった。
このシステムの核心部分は、系統制御理論に基づく論理的な解析と、電力ネットワーク上での発電量や送配電量の計算である。FORTRAN言語はこのような論理計算に適していたが、系統制御の理論的背景を持たない私にとって、これは大きな挑戦であった。まるで暗闇の中を手探りで進むような状態で、経験豊富な同僚の指導を受けながら、一つ一つのプログラムを修正していったのである。
毎日が新しい発見と困難の連続であったが、徐々に経験を積み重ね、システムの全体像が見えてくるようになっていった。約2年間の工場内でのテスト期間を経て、プロジェクトは次の段階へと進んだ。前回のプロジェクトとは異なり、今回は開発完了後、直ちに台湾への赴任が決まり、現地でのテストフェーズに移行することとなった。

得られた経験と成長

この経験は、エンジニアとして大きく成長することにつながった。専門知識の不足は確かに大きな障壁であったが、実践的な経験を積み重ねることで、次第にシステムの本質を理解できるようになっていった。また、国際的なプロジェクトに携わることで、技術だけでなく、異文化コミュニケーションやプロジェクト管理についても多くを学んだ。
この台湾電力向けのディスパッチシステム開発は、キャリアの中でも特に印象深いプロジェクトとなった。それは単なるシステム開発以上の意味を持ち、アジアの電力インフラ整備という大きな貢献にも繋がる重要な仕事でもあった。

今回の米国滞在の約2年は2回目でもあり、家族同伴で楽しく充実した日々であった。次回は、このシステムと共に台湾に赴任した際の話を伝えたいと思う。

米国での日常生活

当時(1975年)の米国での日常生活がどのようなものであったか、紹介しておく。

家族での生活

最初の訪米の際には、海のものとも山のものともわからない日本人の私にそれほど注意が払われることもなかったが、今回は前回の実績もあり、L&N社から手厚い手配を受けた。滞在費や生活費も先方持ちで、様々な便宜を図っていただいたのである。最初から家族の帯同が許可され、私が単身で赴任してから2ヶ月後には妻と4歳になった娘が加わった。住居は前回と同じペンシルベニア州のランスデールで、2階建てアパートの1階部分の2LDKに住むこととなった。2階には別の入り口があり、愉快なイタリア系の夫婦が住んでおり、滞在中は親しくお付き合いをした。アパートにはプールも付いており、夏場はいつでも利用できたのである。
実際に家族で生活してみて、最も印象に残ったのは現地の人たちの消費量とゴミの量である。いつでも自由にゴミ置き場の鉄製大型コンテナに捨てておくと、毎日大型の廃棄物運搬車がやってきて、山ほどのゴミを回収していく。分別も何もなく、コンテナに入るものなら何でも可という状態であった。これを目の当たりにして、改めて米国という消費大国の実態を実感したのである。

地方都市の移民対策

当時はベトナム戦争の末期で、多くのベトナム難民が米国に押し寄せていた時期であった。我々が住んでいた小さな町でも、移民を受け入れ、米国に順応させるための対策が講じられていた。
その一つが地元の高校に設けられていた外国人向けの語学教室である。完全無料で、世界中からの移民や一時訪問者が英語力に応じて数クラスに分かれ、昼夜の授業を受けていた。妻と娘は英語のクラスに通い、私は併設されていた成人用の外国語講座でスペイン語を学んだ。しかし、期間が短かったため、実用的なレベルには到達できなかった。

米国での興味深いエピソード

米国滞在中に興味深いエピソードがあったので、こちらも紹介する。

当時の転職事情

前回一緒に働いていた同僚のA氏が、今回も同じ職場で4、5人のグループのマネージャーとして働いていた。「昇進されたのですね」と声をかけると、実は「出戻り」であると言う。話を聞くと、一度他社に転職して3年ほど経ってから、現在の会社に戻ってきたとのことである。A氏は個人的に契約しているリクルート会社に、希望する職種や給与を伝えておくと、条件に合う求人があった時に連絡が来るシステムを利用していた。その結果、同様の仕事で給与は約2倍になり、マネージャー職に就けたということである。当時から米国では、採用する側もされる側も、前職や退職理由、年齢や個人的な背景、勤続年数などにこだわらず、ニーズが合えば再雇用することが一般的であった。日本では一度退職した会社に再就職するのが困難な時代であったが、米国では50年も前からこのような柔軟な採用形態が存在していたのである。

ニューヨークでの偶然の再会

1976年は米国建国200年記念の年であり、至る所で記念行事が行われていた。秋頃、家族でニューヨークの建国200年祭記念パレードを見に行った。
我が家からニューヨークまでは車で3時間ほどの距離であり、日帰りで出かけた。当日、ニューヨーク港には日本の自衛隊の護衛艦隊が祝賀のために寄港しており、久しぶりに日の丸を目にした。乗艦も許可されていたため、護衛艦に乗る貴重な体験もした。甲板を歩いていると、どこかで見覚えのある自衛官と出会った。なんと、高校の同級生であった。彼が防衛大学校に進学したことは知っていたが、まさかこんな場所で再会するとは思いもよらなかった。「おい、山下ではないか?」と声をかけると、彼も驚いて言葉を失っていた。高校卒業後14年ぶりの再会で、しばらくの間旧交を温め、後日の再会を約して別れた。異境の地でのこの偶然の出会いに、世界の狭さを実感した。

補足:パワーディスパッチシステムについて

パワーディスパッチシステムとは、電力ネットワークで電力の供給と需要及び送配電を管理するためのシステムである。主な機能として以下が挙げられる:

  • 電力供給の最適化:需要と供給のバランスを取りながら、最適な発電所や送電経路を選択し、コストを最小限に抑える。

  • 障害管理:電力ネットワーク内の障害や故障に対して迅速に対応し、影響を最小限に抑える。

  • 予測とスケジューリング:電力需要の予測や発電所のメンテナンススケジュールなどを管理する。

  • エネルギーの効率化:電力網の安定性や効率性を高めるための重要な役割を果たす。

今回開発したシステムは、台湾全土の火力、水力発電所を網羅した送配電ネットワークであり、急激な電力使用量の変化の際には水力発電所の発電量の調節までコントロールルームから直接行えるようになっていたものである。


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