2.ビーシュマの誓い
16年の月日が経ちました。
シャーンタヌの心は空っぽのままでしたが、
王としては立派に国を治めていましたし、まだ好みの狩りも続けていました。
ある時政務を一仕事終えたシャーンタヌは久々の狩りをしようとガンガー川のほとりまでたどり着きました。
ところがいつものガンガー川の様子と、何かが違うのです。
空気も風も金色を帯び、煌めいているような。なにごとかと彼は目を凝らすと、そこにはあのガンガー女神が笑顔で立っていました。
そう、彼のこよなく愛した、あの彼女が。
しかもそれでけではなく、輝く肉体をもち、高貴な顔立ちをした青年まで一緒でした。
シャーンタヌは、足をもつれさせながら駆け寄ります。
「おお、ガンガーよ。私の元に戻ってきてくれたのか!
しかも、彼はもしかして君の息子か?!」
「そうよ、そしてあなたの子でもあるわ。彼の名はデーヴァヴラタ。
ねえ、聞いて。
彼はヴァシシュタ仙にヴェーダとヴェーダーンタを習いました。武芸にも精通しているし、政治もしっかり理解しているのよ。クシャットリヤ(王族、戦士)として申し分ないわ。彼をあなたに授けます。あなたの悲しみが少しでも薄れるといいのだけど」
シャーンタヌは笑い飛ばしました。
「何を言うのだ!君と息子が帰ってきて、何を悲しむというんだよ」
ところが、ガンガーは河原に目を落として、
「だって、私はあなたとは一緒にいられないから・・・」
と、言い終わるなり、消えてしまいました。
「そんな!待ってくれ・・・!!」
追いかけるも空しく、漂うのは彼女のかぐわしい香りだけ。
シャーンタヌの元には、一人の神々しい息子だけが残りました。確かにガンガーとともにいられないことは、彼にとって非常に悲しいことではありましたが、これからのシャーンタヌの人生はひとりぼっちではなくなったのです。
肩を落としつつも、シャーンタヌは、デーヴァヴラタとともにハスティナープラへ帰還したのでした。
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それから4年。
デーヴァヴラタは、シャーンタヌにとってもハスティナープラの人々にとっても、素晴らしい王子に成長しました。
何より父想い。
シャーンタヌにとっては誇りの息子でした。
この親子は、連れ立って行動することが多かったのですが、珍しく今日はシャーンタヌ一人で狩りに出かけました。するとどこからか、甘くかぐわしい不思議な香りがします。
香りの源を知りたいという欲求に抗うことができず、シャーンタヌはその芳香をたどって歩きはじめました。
着いた先はヤムナー川。
歩くにつれ強くなる香りをさらに辿っていくと、なんと一人の若い娘に出くわしました。
またしてもシャーンタヌにとって、問答無用に完璧な彼女。
恋のノックアウト(アゲイン)です。
どうやら彼女は漁師の娘のようでした。
彼女が欲しい。
シャーンタヌは切実に願います。
「きみはだれだ?こんなところで一体何をしているんだ?」
シャーンタヌが問うと、柔らかい声で彼女は答えました。
「わたくしはサッテャヴァティー。漁師の娘でございます。ボートでヤムナー川の両岸を往復するのが、わたくしの勤めなのでございます」
そこでシャーンタヌは、さっそく娘の父親のところに赴いて、こう告げました。
「わたしは月の王朝の君主、シャーンタヌである。ハスティナープラからやってきた。先ほどヤムナー川の岸辺でお前の美しい娘と出会ったのだ。私は彼女を妻に迎え入れたいと思っているが、よろしいかな」
「なんと・・・そうでしたか」
漁師は突然の王の申し出にも慌てる気配はありません。深々と挨拶を交わしたのちに、落ち着いて答えます。
「確かにあれは私の娘でございます。
たかが漁師の子にすぎないわが娘が、まさか王様に見初められるとはなんという光栄でありましょうか。 なんともありがたい申し出でございます。
ただし、結婚を認めるには条件が」
あろうことか、漁師は条件を持ち掛けてきました。
もしも、シャーンタヌと自分の娘の間に生まれた子供が
必ず王位継承者になるならば、結婚させてもいいだろうと。
シャーンタヌは思わず言葉を失いました。
なぜなら、彼にはそれはそれは大切にしているデーヴァヴラタという正式な王位継承者がすでにいるわけですから。
さすがにその条件を飲むわけにはいかず、彼はすごすごと自分の王国へと帰りました。
帰ってきた父親の様子が、明らかにおかしい。わかりやすく、おかしい。
デーヴァヴラタはすぐに気づきました。
シャーンタヌに聞いてもはぐらかされるばかりですが、 何かあるに違いないと思い、デーヴァヴラタは周りの人々に聞き込みました。
すると、ある従者が「王様はどうやら恋煩いをなさっているようです。その娘と結婚できない故にお悩みになっているのではないのでしょうか」
とこっそり打ち明けてくれました。
ならば結婚を説得させようと、デーヴァヴラタは例の漁師の元に急ぎました。そしてシャーンタヌが言われた例の条件を聞かされたのです。
すぐに聡明なデーヴァヴラタは悟りました。なるほど、だから父上はあんなにも悩んでいたのかと。
自分の存在が父親を苦しめていると思ったこの若き王子は、漁師に言い放ちました。
「それならば私は喜んで王位継承権を放棄しようではないか。
お前の望み通りにしてやろう」
漁師はそれを聞いてなお続けます。
「なんとありがたきお言葉か。しかし、まだ一つ悩ましいことが残っております。
それはですな、もし、あなた様に御子が生まれたら、 きっとあなた様は自分の御子に、王位を継がせたいと思うのではないのでしょうか。ああ!!!そうしたら結局わが娘の子は王位継承者となりえない!!!
・・・と、なりますと、やはりあなた様の御父上にはわが娘をお譲りすることはできませんなぁうほほほほ」
デーヴァヴラタは、あくまでも自分の娘の血筋を、ひいては自分の血筋を王家に必ずや残そうとするこの執念深さをもつこの漁師に、ついにこう宣言してしまうのです。
「良かろう!私は王位継承者を放棄し、また今後一切婚姻をせず、子供も作らないと宣言しよう!」
この事態がどうなることかと天界で見守っていた神々は、なんと恐ろしい誓いをたてたのだ、と慄き(おののき)恐れ、 口々に恐ろしいという意味の言葉「ビーシュマ!」「ビーシュマ!!」と叫びました。
そう、この誓いをきっかけに、マハーバーラタの物語は最初のターニングポイントに辿り着きます。デーヴァヴラタの決断は、のちに出てくる人々や歴史に少なからず影響を与え続けることとなるのですが、もちろんこの頃のデーヴァヴラタには知る由もありません。
何はともあれこの誓いの日から、デーヴァヴラタはビーシュマという名で呼ばれるようになりました。
ひとまずこの孝行息子のおかげで、シャーンタヌは漁師の娘サッテャヴァティーとめでたく結婚することができたのでした。
《ガネーシャのひとりごと》
ビーシュマって言葉は恐ろしいって意味だけど、 現在の教えだと「ものすごい誓いを成し遂げた人」とか「困難を乗り越えた人」と訳されていることもあるみたいですね。
ほんとのとこはどうなんだって? そりゃあ、ビーシュマはビーシュマだよ。僕がいうんだから間違いないよ。