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主婦から大学教員になった私 その6

すっかり忘れていたのですが、というかもしかしたら無意識で忘れようとしていたのかもしれませんが、実は博士課程の終わりごろ、仕事のオファーがありました。

安っぽいドラマみたいな話なのですが、なんと同日(1日違いだったかも)に、2か所から連絡が来たのです。

1つは某事業所の研究所で、勤務地は札幌。学会で私の研究を聞いて、それをそのままこっちで応用してほしいという、若手研究者にとっては身に余るような光栄な話でした。ただし身分はポスドクで、任期は3年(だった気がする)。

もう1つは当時住んでいた同じ県内にある中堅(よりちょっと上かな)の私立大学。専門分野はかなり変わるのですが、こういうベースを持っていて、かつ女性、という先方の条件がめぐりめぐって知り合いから連絡が来たのです。こっちは助教でパーマネント。

今は大学教員の選考はかなりクリアになっていますけれど、当時はそもそも「インターネット」すら出始めの頃でしたからね。まだこういう、口コミでの採用ってあったのです。「こういう人いない~?」と周りに聞いて回って、該当者に来てもらって面接して決まっちゃう、みたいな感じ。

私のテーマをそのまま受け入れてくれるポスドクか、いやいや安定したパーマネントか…。

さんざん悩みましたが、選んだのは後者。テーマに固執しなくても、新しい場所で新しいことを始めて、その分野で頑張っていけばいいと思ったのでした。

そこから博士課程を修了するまで、その私立大の研究室ともコラボみたいなことをして、いち早く卒論の学生の面倒を見たりもしていました。何度も研究室に足を運んでいたので、実際に通勤することになったらこの時間のこの電車を使うよなあと思ったり、大学の近くにある保育園をみて、そうか本当に就職出来たら、任期を気にせずに不妊治療しようかなあとか、いろいろ妄想をしていたわけです。

が…。

フッと、話が流れてしまいました。本当に、フッと。

いやいや話が違うじゃん、と殴り込みをかけようにも、すべてが「口約束」でしたからね。契約書的なものは一切なかったのです。いまだに、あれはなんだったのかなと不思議で仕方ありません。

とはいえ、そこまで落ち込みませんでした。というのも、私の上司になるはずだった教授がどうもアヤシゲというのか、「トンデモ科学」と紙一重みたいなことをいろいろしてたんですよ。いろんな商品の広告塔になっていたりとか。もしそこに入っていたら、私もその一味(?)になっていたかもしれないと思うと、むしろ逃げ切れてセーフだったのかなという気もしなくはありません。

一方で、あのとき札幌に行っていたら。

どうなんでしょう、それなりに楽しくやっていたかもしれませんし、行き詰ったかもしれません。楽しくやっていたとしても3年経って任期が切れて、結局路頭に迷った可能性もありますね。

そんなこんなで、卒業後の行き先が突然無くなってしまったので、教授に泣きついて、出身研究室にそのままポスドクとして残ることになりました。ただ、2か所からオファーされたという経験は、「行こうと思えばどこでも行ける」という変な自信につながってしまい、私にとっては良くなかった気がします。

まさかその後の長い長い長い期間、苦戦する羽目になるとは…(次回に続く)。