遠い時空の人間たちと繋がってーー北村想『寿歌二曲』(2024|理性的な変人たち|東京幕引き手記3)
・変人たち、しかし理性的な
こんにちは。衛かもめです。
前回と前々回の幕引き手記は、それぞれの舞台を観なかった読者さんも面白く読めるように、ストーリーのあらすじや現場での見聞を出来るだけ丁寧にお伝えしました。
今回は趣向を変えて、同じ舞台を観た方、つまり基本情報をある程度共有できている方を読者と想定して書いてみたいです。
2024年9月19日、「理性的な変人たち」Vol.4『寿歌二曲』の夕星<ゆうつづ>の回を観てきました。
最初に観た「理性的な変人たち」の舞台は、Vol.2『オロイカソング』でした。それからのVol.3『海戦2023』も大変面白く拝見しました。ややせわしく、誇張された演出が風格ですが、舞台に込められたメッセージは毎回しっかりと伝えていると思います。
これこそ「理性的な変人たち」、一見変わっている舞台かもしれませんが、実際は綿密に計算されているからこそ理性的だと言えるでしょう。
Vol.2『オロイカソング』では、女性の成長過程における傷つきながらも成長していく過程を描写し、Vol.3『海戦2023』では、全員男性のはずの水兵の役を女優たちが演じました。いずれもジェンダーの視点に着目し、「変人たち」が何を観客に訴えようとするのかが見て取れます。
とりわけVol.3『海戦2023』の場合、あえて登場人物の性別とは異なる役者を起用する演出は、「ジェンダー=ロール=リヴァーサル(gender role reversal)」、つまり「ジェンダー役割の逆転」という演出法です。
男性気質がいびつになるほど強調される潜水艦内で、女優たちが力を振り絞って「男性らしさ」を見せつけること、加えて時には極限環境に置かれた男性の脆さをも見せることで、観客に男性気質を考え直すよう問題提起をしているではないかと思いました。
その上、潜水艦・軍人・戦争などの設定は、男性気質に対する問いかけを、さらにナショナリズム、つまり民族主義・国家主義レベルの思索へと導いているのでしょう。
私見ですが、スケールの大小に関わらず、女優さんたちを起用することで、『海戦2023』の演出は男性気質に関わる不条理をより際立たせていることができました。
・理性を見つけて
さて、Vol. 4『寿歌二曲』はどうだったのでしょう。
北村想氏による『寿歌』が描いているのは、「九重五郎吉一座宣伝隊」という旅芸人の劇団が核戦争の前と後に荒野を彷徨う物語です(核戦争後には「宣伝隊」の部分は削除されます)。出版した戯曲は合わせて四曲ありますが、今回上演されたのは、核戦争直前の『寿歌II』と、核戦争後の『寿歌』です。
劇場は地下一階の古い銭湯の跡地を利用した北千住BUoYなので、そこでしかできない面白い演出がありました。一般的に人や舞台装置が入退場に使われる舞台袖がない代わりに、銭湯の湯船に予め横になって隠している役者さんが起きて登場します。これは滅多に見られない演出でしょう。
加えて、銭湯の太い柱に「戦争前」や「休憩(二曲の間の休憩)」のような張り紙があり、それを勢い良く剥がすことで場面の切り替えが気持ちいいほどに明快になっています。
今度のVol. 4『寿歌二曲』では、俳優さんも起用されています。しかし、Vol.3『海戦2023』のように、すべての役を男女逆転させたわけではありません。
まず、明星の回と夕星の回で、旅芸人のキョウコの役は、ダブルキャストになっています。自分の観た夕星の回では、キョウコを演じたのは俳優の廣田高志さんでした。一方明星の回では、女優の荒巻まりのさんがキョウコの役を演じました。
その上、第二幕の『寿歌』に登場するヤソ(核戦争の後に帰ってきた神の子であり、神でもあるイエス=キリストの役)を演じたのは、明星と夕星の回を問わず、俳優の坂本七秋さんでした。これは、神様だけが別格だから、わざわざジェンダー逆転しなくてもいいかも知れません。
『寿歌二曲』に描かれる終末の世界では、「男らしさ」と「女らしさ」はさほど重要ではないと感じました。
夕星の回のキョウコを見て、そのピンクの衣装は愛らしく感じましたが、廣田さんの白いヒゲに慣れるまでには少し時間がかかりました。しかし、一旦慣れると、年上の男優が演じる幼げで可愛いキョウコに対する違和感がなくなり、ジェンダーと年齢の逆転による滑稽さも少なくなりました。
一方、男性のゲサクを演じた女優の滝沢花野さんは、道具を満載したリヤカーを引っ張り続け、背広に大量の汗が滲み、服の模様と見間違えるほどでした。「これは女優さんが演じる男役だ」と思う隙のないほど、全力の演技を見せました。
ちなみに、ゲサクの台詞は役柄上訛りがあるため、私の勉強不足のせいで分かりづらかったです。自分の不甲斐なさを感じざるを得ませんでした。 他の人物と役者に触れるのは割愛しますが、『寿歌二曲』では、「男役だからこそ」と「女役だからこそ」というような、ジェンダーを強く意識させる要素が少ないように感じられました。
それでは、役振りのジェンダー以外のところに、「理性」は見つけられるでしょうか。
舞台上でも現実生活でも、私たちは繰り返された出来事に対して、それが誰かの意図によって引き起こされたものだと理解することがあります。つまり、繰り返される出来事には、必ず理性で説明できる理由があると信じているのです。
例えば、毎度リヤカーを一段高い舞台の部分に引き上げるシーンでは、他の登場人物たちが違う方法でリヤカーを後ろから押して手伝っていました。旅する一座なので、そうした繰り返された移動の節目が、ストーリーの節目として捉えることもできるかも知れません。
さらに、ほぼ毎度リアカーが段上に押し上げる際に、リアカーに結んだ袋からステンレスの食器が落ちていました。私が観劇した回では、一度だけ落ちなかったことがあり、そして後日オンラインイベントで披露されたところ、演出で食器を落としていたわけではないようです。
強いて言うなら、毎回必死でリアカーを引っ張って押しているから、食器が揺らされて落ちるのが当たり前のことだ、というありきたりのことしか言えません。
しかし、そんなに理性を見つけることに執着しなくても、『寿歌』に描かれる核戦争の世界で、仲間たちが力を合わせて旅を続ける様子を見て、私はほっこりとした気持ちになりました。
・気持ちのおかげで
どうやら、『寿歌二曲』に理性的な部分を見つけ出すことは簡単ではありません。
いずれにしろ、私が笑いながら、リラックスしながら観劇していたことは確実です。
『寿歌二曲』のメッセージ性を探るよりも、私にとって大切なのは、この時代、この場所でこの作品を観たこと自体に意味があると感じています。
『寿歌』が初演されたのは、1979年のことでした。当時の人たちは米ソ冷戦のただ中にあり、核戦争の脅威は現実的で身近なものでした。つまり、初演の時代の人々にとって、いつゲサクとキョウコたちのようになってもおかしくありません。観客たちは、最初の『寿歌』をこうした心境で観ていたでしょう。
一方、2024年の現在、『寿歌二曲』は、どこか遠い時空で起こった出来事のように感じられました。。
しかし、今の時代では、身近でなくても、戦争や紛争を現実的に感じることができます。
インターネットやテレビニュースなどの情報源のおかげで、これまでになく多くの人々が世界中の紛争に関心を寄せています。この世界はこれからどうなっていくのか、自分にできることは何なのか、私たちは1970年代とは少し異なる不安を抱いています。
生田みゆきさんを始めとする「理性的な変人たち」のメンバーたちが『ガザモノローグ 2023』の制作に参加したのも、こうした高まる関心の表れではないでしょうか。
今、グローバリゼーション(世界一体化)を持ち出すと、グローバリゼーションによって貧富の差と搾取がもたらされているなど、ネガティブな印象を持つ人が多いかもしれません。しかし、一人一人として、国際的な問題に対する関心と関与は、経済的な国際化以上に、何かを変える力があると、私は前向きに信じています。
少なくとも、この「関わっていきたい」という気持ちのおかげで、私は無力感に蝕まれず、日々を前向きに過ごすことができました。『寿歌二曲』の世界から、私と繋がってくれたゲサクたちには、感謝と応援の気持ちが溢れています。『寿歌II』の中で、口がきけないクマの身振り手振りを必死で理解しようとするキョウコの姿は、とても示唆に富んでいると思いました。ゲサクたちが見せてくれた友愛と活力は、私たちの世界がこれ以上極限状態に陥らないために蒔かれた希望の種となるのでしょう。
衛かもめ