小説『旅と本と〇〇と』マレーシア編 #1 旅のはじまり
「なおこ、まだ決まらないの?」
真剣に本を選んでいるとき声をかけられてびくっとした。
スマホの時計をみると本屋に入ってから1時間も経っている。
雑誌コーナーで立ち読みして待っていた夫の明がしびれをきらして呼びにきたのだ。
来月のマレーシア旅行に持っていく文庫本を選んでいるのだが、なかなか決まらない。
文庫本なんて数百円なのだから、とにかく買えばいいのだけど、旅行にもっていく本は慎重に選びたい。
「ごめん、まだかかりそう。」
「先帰ってるよ。」
明は先に帰ってしまった。
旅行の時、私は少なくとも一冊は本を持っていく。
「旅先でも一緒に本が読めたら楽しいのにな」
子どもの時から大の本好きの私とは対照的に、
夫は年間一冊も本を読まない。
結婚したての頃は、夫に本の楽しさを知ってもらおうと、
興味がありそうな本をプレゼントしたりしていたが、
期待はむなしく、プレゼントした本はほとんど読まれず埃をかぶっている。
すでに夫を本好きにさせよう計画はあきらめているし、
夫がいない方が気を遣わずにゆっくり本を選べる。
私はまた本選びに集中する。
「村上春樹、江國香織、小川洋子、、、定番の好きな作家にするか、
いや、せっかくだから最近話題になっている作家の本にしようかな。
あ、でも冒険して私好みじゃなかったらやだな。」
仕事と家事をしながら本を読む時間を作るのは思っているよりも難しい。
長編にすると読み切れなくなるので、普段はどうしても気軽に読める短編やエッセイ集になってしまう。
旅行の時間はまとまった読書時間が作れるため決まって長編小説にする。
若い頃はガイドブックに載っている観光スポットは全部回りたいと思っていたので、ハードスケジュールが定番だった。
本を持って行っても読む時間はほとんどなかった。
でも年を取るにつれて体力的に疲れる旅行ができなくなったのもあるが、もっと心地良い旅の仕方を見つけた。
街のカフェで観光客や地元の人たちを眺めながらビールを飲みながら本を読む。
真っ青なビーチで横になりながら、部屋のテラスで夕日を眺めながら、夜のバーでお酒を飲みながらのんびり読書をする。
駆け足で回った場所の記憶は曖昧だけど、
あの場所であの本を読んだ、読んでいるときの感情は鮮明に覚えている。
「旅先で本を読むこと」これが私の最も心地よい旅なのだと思う。
今回のマレーシア旅行はランカウイのリゾートホテルで本を読みながらのんびり過ごす予定だ。
コロナの影響で4年も海外に行けなかった分、いつにもまして高揚感が高まる。
「よし、これにしよう!」悩みに悩み、
村上春樹の『色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年』に決めた。
村上春樹の本はほとんど読んでいるが、まだ読めてない長編小説だ。
旅行中に一冊読み終わるかな?一日で全部読み切っちゃったらどうしよう?
少しドキドキしながら会計をする。
店員がきれいにブックカバーをかけてくれた本を受け取る。
「ありがとうございました。」
この本はどんな風景や場所で、どんな気持ちで読むのだろう?
私の旅がはじまる。