『終戦のエンペラー』
『終戦のエンペラー』(2012)を再見して。チョット変な感覚を覚えた。
『あ~~~造っているな~。』と。そして、出演者たちに実在感を感じた。現実に存在する人が俳優として演じているのだと確かに思えた。
私は、幼少時の体験によって現実から逃げて内向した。
しかるに、映画を観て、映画という造りものの現実(殊にスタッフ&キャストたちの存在)に実感が持てなかった。映画が造られてから映画館で上映されるまでの配給過程も解っていなかったから、スクリーンに上映される映画というものが不思議だった。
だいぶ歳とってきて、今ではもうそういう感覚は殆どなくなっているけれど。どうして映画館で映画を観たくなってしまうのだろう?という思いは、今もある。
ともかく。
そういった不思議な感覚が、この映画のDVDをみた際には、殆どなくて、まるでカメラの隣に立っていたかの様な感覚を覚えた。
これは私にとって、驚くことなのだった。
この映画は、戦後間もなくの東京、占領軍司令官マッカーサーが日本にやって来るところから始まり、天皇の処遇問題(天皇に戦争責任はあったかどうか?)の調査を、マッカーサーから命令された士官を中心とした、アメリカ映画。なのだけれど、製作に、奈良橋陽子や野村佑人がいるように、完全にアメリカ側からの視点によってはいない、と思う。
しかるに、この映画はフィクション(物語)で、史実に忠実ではない。
例えば、その調査にあたるボナーフェラーズは、日本ではなくて中東専門の情報将校だったとか、彼が東條や近衛や木戸らに会っていたという事実はないとか。。その他にも色々あるが、殊に、この映画で日本人女性との恋愛が描かれるが、その日本人女性は架空の人物、だそうだ。
それで、戦後間もなくの東京が舞台。
東京は、勿論空襲で焼け野原。そこを歩くボナーのシーン。これが、いかにも。。!と感じたところ。決してチャチイというのではない。良く造られている。
けれども、私には映画用に造り出されたものとの感覚が湧いたのだ。
それは、それなりに、ツッコミどころでもあるんだけど。
例えば、戦後間もなくの東京の飲み屋にしては立派すぎなんじゃない??とか、
ボナーフェラーズが恋人の実家へ行って彼女の父親に会うところ、彼女の父親は士官クラスの軍人、彼女(とその母親)は死んでいて、なのにその父親(だけ)は生き残っているんだ~(◎-◎;)、とか。
そういうことは問題じゃないのだ。
だから(この映画はフィクション)、この映画は、日本の占領政策において、天皇処遇問題をどう処理したか、という物語としてみるべきと思う。及び、その問題を担当したアメリカ人男性の、日本人女性との恋愛にまつわる物語。
そういうことにおいて、この映画は、まことに素晴らしい映画だった、と思う。