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長谷川和彦と、


長谷川和彦という映画監督が、いた。

あえて、「いた」と言ってしまう。
なぜなら、
1976年『青春の殺人者』で初監督、二作めが1979年『太陽を盗んだ男』
で、その後、長谷川和彦監督映画は一つもないから。
これは、まことに不思議だった。

村上龍は、
『限りなく透明に近いブルー』(1979)
を初監督したが、それは
製作費を出した多賀英典が監督をやらせたから、と私は思っている。
村上龍監督映画二作めの『だいじょうぶマイフレンド』(1983)、これも多賀英典製作。
だが、この二作とも興行は失敗した。
この、キティフィルムの興行的赤字を救ったのがアニメ『うる星やつら』、と言われている。(実製作は外部委託だが)。
村上龍は、これで映画監督はやめるかと思ったら、ところがドッコイ、また映画を撮った。奥山和由原案で『ラッフルズホテル』(1989)。脚本は野沢尚で、村上龍は監督のみ。その後、『トパーズ』(1992)、『KYOKO 』(1996)、この二作とも村上龍が脚本と監督。合計5本の映画。(1996年以後の村上龍監督映画はない)

長谷川和彦監督映画二作めの『太陽を盗んだ男』(1979)、この映画の製作会社がキティフィルムだった。
製作者は山本又一郎、製作総指揮者に伊地智啓。

だから?
1979年頃or それ以後、多賀英典のもとで、長谷川和彦と村上龍の組み合わせで映画を造ろうという企画があった。
村上龍が脚本書いて長谷川和彦が監督で。
『ニューヨークシティマラソン』とか

ところが?
長谷川和彦は村上龍の脚本を却下。
長谷川和彦は、助監督時代(有名どころでは『青春の蹉跌』)、監督を差し置いて役者達を自分が采配した(そうだ。)
そんな長谷川和彦、不満ならば、自分で書き直すなり、監督してる最中に(勝手に?)脚本無視で撮ってしまうなり、できたと思うのだけれど・・
そうはならなかった。
ともかく、キティフィルムでの長谷川和彦監督映画は、『太陽を盗んだ男』以外に誕生しなかった。

長谷川和彦は
1982年にデイレクターズカンパニーを設立した。デイレカン製作映画一作めは『人魚伝説』(1984。池田敏治監督)。
デイレカン募集脚本による製作映画が『台風クラブ』(1985。相米慎二監督)。
デイレカン時代、
長谷川和彦と根岸吉太郎の監督映画を造りたかった奥山和由の企画や、デイレカン経営危機の際ATG 代表の佐々木史朗との話し合いがもたれたこともあった、そうだが、しかし、デイレカンは約十年で倒産。
一番期待されていた長谷川和彦監督映画は、ここでも誕生しなかった。
デイレカン倒産の要因については、ここでは略。

デイレカンにいた宮坂進(博報堂の営業マン)は、後にアルゴプロジェクト(現在アルゴピクチャーズ)に参加。
アルゴプロジェクトには、多賀英典や佐々木史朗(ATG 代表)などもいて、製作配給興行一貫を仕事とする会社でスタートしたが、しかし、興行成績奮わず。
1993年にアルゴピクチャーズと名前を変えて、現在でも存続しているようだが、映画製作はしていない。
ともかく、アルゴプロジェクトにおいても、長谷川和彦の登場は全く見られなかった。

長谷川和彦が35年以上も映画を監督していない要因についても、ここでの考察は略。ほぼその通りなんだろうなと私には思えることが、ネット検索でおおよそ推測できるし。

では。村上龍。
むしろ、こっちのが不思議。
検索したら、四作めの『トパーズ』の製作総指揮に多賀英典の名前があった、けれど、なんといっても五作めの『KYOKO』の製作に、あのロジャーコーマンがいるのだ。これが、まことに、びっくり。
どういうわけで、この映画にロジャーコーマンの名前があるのだろう?
ロジャーコーマンと村上龍を繋げた人がいると思うのだけれど。
ものすごく気になっている。

引き続き、調べてみたいと思っている、のだけれども、三作め『ラッフルズホテル』以降の映画に関する情報が少ない。
『トパーズ』はタップできたけれど、スタッフ欄がなかった。

今回はここまで。ということで。

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