けれども・・?
考えても答えがでないもので、私がとても気になるものにフィクションの必要性がある。
私は、どうしてフィクション(の世界)を必要とするのだろう?
これはまぁ、だいたい見当はついてるけど。
映画館で映画を観たい!というのと、同じ要因によるものと思っている。
私には、逃げ込んでいく世界が必要だ、と思っている。今でも。
いや。
六歳の頃の記憶がないのはどうしてなのだろう??と。
私にとって、現実はいつも忌避なるものだった。
その自分の現実に目を背けて、自分にとってより良くせんと立ち向かって変えていこうとするのではなくて、逃げてきている。
それは、六歳の時に生母が亡くなったことに起因している、と自分では思っている。
その頃の記憶がないからだ。
あっていいはずの記憶がない、というか、思い出せない。思い出したくもないものとして、蓋をしてしまっているのだろうと思う。。
私は、生母の死亡をどの様に知ったのだろう・・??
生母の死亡から一年も経たずに父に後妻が来て(何しろ生まれたての妹がいたし)、それから一年も経たたないで弟が生まれている。
その頃ことを思い出すことができない。
その頃ばかりか、その後の小学生時代のことを、私は殆ど思い出せない。
私にとって、辛い日々だったに違いない。
しかるに、私はフィクションの世界に逃げ込んだ。自分の現実から目を背けた。
フィクションの世界は、私にとって、必要欠くべからざるものだったのだ。
その頃に読んでいた本の記憶は、いささかある。
探検や冒険ものだ。
世界初の8000m峰登頂記
(アンナプルナhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%8A)
や、アマゾンやアフリカの探検記や、スウェンヘディンの中央アジア探検記等々。
それらは、ノンフィクションものというより、私にとっては逃げ込んでいける憧れの物語だった。単に憧れていただけのものだった。
そういう本を読んでいたにも拘らず、現に、私は冒険家や探検家や登山家になっていない。
その頃読んだそういう本は、私にとっては遠い異世界のもので、憧れの対象でしかなかったのだ。自分の現実に引き寄せて思うことはなかったわけだ。
そうして、歳ばかりくってしまった。
今から登山家を目指すにには、私はあまりに歳老いている。
そんな思いが、どうも拭えない。