『荒野へ』②
以下、同じく、2008年のもの。
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もう少し考えてみたい。
つまり、何故だったのか。何故、人は荒野に憧れをいだくのか??
(男だけかな?もちろん、荒野に限らない。砂漠とか山の彼方とか。)
おりしも、熊野に今、私はいる。
那智勝浦の方に、補陀落山寺があって、かつて南方海上にあるとされた観音菩薩浄土を目指して船出した、補陀落渡海信仰があったそうだ。 それは、死を賭して入水する捨て身行であり、宗教的実践行為であった、そうな。
宗教的信仰によるもの(それは死後のことだから)と、現生での『ここではないどこか』 (あるいはユートピア理想)とは、異なっているだろう。
けれども、とにかく、今現在とは違うどこか何かに憧れる、そういう精神構造、心の有り様は、通底していると思う。
そもそも、アフリカで誕生したとされているホモ・サピエンスがかように全世界に居住してしまっている歴史を眺めれば、「ここではないどこか」への憧憬は、私たち人類に付与されている、宗教的信仰以外のホモ・サピエンス特有の精神といっていいのではないか。
『荒野へ』の訳者、佐宗鈴夫氏は訳者あとがきで書いている。
『若者の遺体が発見されたのは1992年9月のことで、その当初からマスコミに取り上げられ、かなりの間世間を賑わした。この一人の無名の若者の死が人々の関心を集めたのは何故だろうか。裕福な家庭に育ぢ大学を優秀な成績で卒業した直後に、彼は突然、何もかも捨てて、理由も告げずに家を出ていき、姿を消した。それから二年後に、まるで人々に衝撃的なメッセージを残そうとでもするかの様に餓死という死に方をしている。いわば世間に背をむけたとしかみえたいその行動が、彼とは直接関わりのない人々の価値観をも激しく揺さぶり、おそらく不安と共感を呼び覚ましたに違いない。』
その後訳者は、この本を書いた著者の姿勢に触れ(実際、著者はできる限り出しゃばらない様にしている。ジョン・クラカワーが本書を書くにあたって資料としているのは、クリス・マッカンドレスの日記、写真、遺品、彼の家族や学生時代の友人達や放浪の旅先で知り合った人々からの証言である。)、それから、クリスは自殺か偶然死だったかにふれてから、著者の体験を書いている。そして、最後に。
『・・つまり、重要なのは、荒野に身を置くこと、場合によっては死の間際まで近づいてみることであり、それによってほんとうの自分を見据えることだ。その自己がなければ、人間というものの真実、偽りのない姿も見えてこないだろう。 本書において、著者はクリス・マッカンドレスという無名の個人を語りながら、その意味で、まぎれもなく普遍的なるものの表現に成功している。』
とある。
いささか長い引用になってしまったが、どうだろう・・
本書が『普遍的なるものの表現に成功している。』かどうかは、各読者の判断に委ねられるべき事柄だと思うが、 少なくとも、私はクリス・マッカンドレスにもジョン・クラカワーにも共鳴する。
大学卒業後突然消息を断ち放浪の旅をしたはてに餓死したクリスと、彼のことが忘れられなくて個人的に調査し続けた登山家でもあるジョン。
しかしながら。
あたかも私たちもクリスの旅を追体験しうるかのごとく、事実だけを丹念に追い続けた本書を読んでいくことは、読者の想像力を要求させられて、映像よりもはるかに刺激的だ、と思える。私はまだ映画をみてないけれど。
そういえば登山家。
私は、槙有恒や深田久弥よりも加藤文太郎のがいい。長谷川恒男や加藤保男よりも森田勝にひかれる。
なんか、まとまりがつかなくなってしまった。
蛇足ながら。
クリスの死について。
自ら死を選びとったのかどうか。そこら辺りのことは本書をよんでいただきたいと、いっておこう。
なお、ジョン・クラカワー著
『荒野へ』は、今では集英社文庫で出ている、ようだ。