山田典吾

1916.05.28 ~ 1998.05.14

山田典吾氏は東京神田の出身(?だったはず)で、日芸卒業後、東宝入社。
1951年現代ぷろだくしょん設立後、しばらくはプロデューサーだった。製作者として、『蟹工船』'53、『真昼の暗黒』'56、『夜の鼓』'58 。
1972年より、山田火砂子さんが現代ぷろだくしょんに参加し、以後、この夫婦コンビが続く。

1972年頃、山田典吾さんは、56歳くらいで山田火砂子さんと出会っていることになり、良きパートナーを得て猛進してる、感じ。
山田典吾さん最後の作品は、アニメの『キムの十字架』。1990年。
これは、『白い町ヒロシマ』で撮影の金徳哲氏からの企画と聞いている。
1996年『エンジェルがとんだ日』より山田火砂子さんが監督も兼任している。

私、現代ぷろで働いてたことあって、映画製作に入ってない時はフィルムの管理が主だったけど、山田典吾氏の運転手も。 監督が外出移動する時は私の出番で(これが最優先)、映画関係の会社やシナリオハンティングで人と会う時(賀川豊彦の映画化の企画をしてたから賀川豊彦記念館へ行ったり)や、映画関係だけじゃなくて、知恵遅れの子供をもつ親の会とかなんとかの役員もしてたし、『もうひとつの少年期』ってのが撮影に入ってたから、それの北海道での撮影の時は、いや、これは山田典吾氏は製作だけだが、とにかく羽田空港へも行ったし。何しろ山田典吾氏、一人で何役もしてた。
当時、現代ぷろの事務所は西新宿の十二荘通りと靖国街道の交差点そば(完全に角のビルじゃなかったが)のビルの二階にあって、山田典吾氏は渋谷よりの甲州街道沿いのマンションに一人で住んでて、その間の送り迎えもだったし、なんかの用あれば部屋ん中にまで呼ばれた。あの頃すでにエントランスロックのマンションがあったんだね。 そういえば、車には自動車電話があった。 ガソリンを入れる時は監督からお金を貰ってて、それがいつも壱万円札だった、様な。 ?
いかん、思い出話になってしまう。

あらためて思ってみると、1984年、山田典吾氏は当時60歳代後半。。!!(私は28歳。)
すごいや。とてもそうは思えない。

役者や監督がみずから会社を興すことは(三船・石原・勝・各プロダクションなど。監督では新藤兼人の近代映画協会とか)あるけれど、製作者がってのはあの頃にはあんまし聞いたことない気がする。
まして、製作者が監督っていうのも。

……なぁんか、
すごい人だったんだなぁ・・・🙏


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