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山口清一郎~崔洋一から

Facebookの映画好きグループで(私は二つ入っているけど、どっちだったか?)、山口清一郎の監督映画を二つ見たことがあって(『恋の狩人/ラブハンター』(1972)と『北村透谷/冬の歌』(1977))、それで『北村透谷/冬の歌』を検索してみたら、助監督に崔洋一がいたと判り、崔洋一をタップしてみたら、助監督についた映画になかなか興味深いものがいくつかあった。

『戒厳令の夜』(1980)もそうだった。
『戒厳令の夜』

製作・竹中労、若松孝二

監督・山下耕作、助監督・崔洋一

脚本・夢野京太郎(竹中労)、佐々木守

原作・五木寛之

音楽・ジョー山中

主題歌・アマリアロドリゲス「悲しみのフローレンス」

製作・白夜プロダクション

配給・東宝

  この映画、観たことある。樋口可南子の映画デビュー作。

私としては、これよりも『風の王国』の方を映画化してほしかったなぁと思ったものだったが。

ともかく、竹中労のことだ。

名前だけは知っていたけど、どういう人なのか知らなかったから、ここもタップ。

それで、(なんとなく)どうして竹中労が『戒厳令の夜』の脚本書いてるのか、どうして『戒厳令の夜』が映画化されたのか、判った気がした。

この映画で使われている絵画は(劇中ではパブロロペスの「少女像」となっているが)、竹中英太郎がこの映画のために描いたもの、だそうだ。

竹中英太郎は、竹中労の父親、というわけ。

で、竹中労。
この人に注目。!!なかなか興味深い。

1945年、甲府中学校(現在山梨県立第一高等学校)で、校長退陣を要求してストライキを指揮、県庁へのデモ行進や学校占拠して、校長が辞意を表明するも、学校側の退学勧告を受けて退学。

1947年、日本共産党入党。山谷や横浜に住み込み肉体労働に従事、労働組合活動に取り組み何度も逮捕される。

1959年、ルポライターを名乗り「女性自身」のライターとなる。

1965年頃から「世界革命」を志し、アジア各地やキューバやパレスチナなどを度々訪れる。(アナーキストとも自称?)

1966年、東映俳優労働組合争議を支援。

1969年、山谷解放闘争を支援。初めて沖縄へ渡り、琉球独立党を支援。

1973年、平岡正明との共著『水滸伝』刊行。

太田竜を含め、「窮民革命論」を唱え、「新左翼サンバカトリオ」と呼ばれた。

1974年、キネマ旬報で、日本映画黎明期を探る「日本映画縦断」の連載開始。

しかし、1977年キネマ旬報社側内部事情でその連載は中止された。

竹中労はこれに抗議、裁判係争した(翌1980年和解)。云々。

。。!!
どぉ~~~ですか!

もぉ、これだけでも、充分興味深い人でしょう。その他にもエピソードに事欠かない。

1983年には、創価学会初代会長の牧口常三郎の記事を「潮」に連載し始めるが、これまた創価学会と対立して中止終了。
で。

キネマ旬報などの取材で東映に何度も出入りし、岡田茂と親交を結んだそうで、企画を岡田茂に提出、竹中労企画の映画が何本か(5~6本?)ある。

と、いうことで。こぉいうことであるならば、竹中労が『戒厳令の夜』に(より積極的に)関わっていたことが腑におちてくる。(何しろ製作と脚本だ)。配給は東宝だったけど。


と、ここまで、で終わるつもりだった、けれども、but、しかし、ヤッパリ終わらなかった。私の場合。
勿論!?「平岡正明」と(ついでに?)太田竜のことも。
太田竜に、その前にカッコで(ついでに?)としたのは、勿論私が太田竜氏と出会ったことがあったから。(ここからは急に太田竜氏になる。)

1988年だ(私は32歳)、
私は東京の千石にアパート住まいしていた。

前年に八ヶ岳本沢温泉で住み込みバイトしていて、チョットばかり貯えもあったから、気楽なバイト暮らし。新泉社という出版社の倉庫で本の整理とかの。それは、もっとその前に(ミルキーウェイと呼ばれた共同生活の家で)出会っていた人からの繋がりで。

太田竜氏は、その頃「イサキ会」との名称の自然食組合を設立していて、いわゆる自然食運動をしていた。まぁ、自然食の流通販売ですね。太田さん自身も自然食を食べて。
なので、太田竜というと、私にとっては自然食やエコロジー運動の人っていう印象。

竹中労、平岡正明、太田竜。

この三人。。!?

平岡正明も映画界に関係してる。

1969年、若松孝二製作、足立正生監督映画『女学生ゲリラ』に出演(その他に二本)してるし、1970年、松田政男・足立正生・佐々木守・相倉久人らと「第二次 映画批評」を創刊。製作者として映画三本。

この三人の中では、太田竜氏だけが映画界に関係してないですなぁ~~




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