ピンク映画
あらためて【ピンク映画】を検索してみて、驚いた。
いろいろあるんだなぁ、と・
まず、〔ピンク映画〕の語源はそこの場面になるとピンク色(ORカラー)になるから(?だよね?しかし、ピンク色とエロさとは本来なんの関係もないんじゃない?)だが、 その起源は定かでない、そうだ。
テレビの普及により、ニュース映画や教育映画関係者(という表現になってる)が、糊口を凌ぐためにお色気映画をつくり始め(その頃はまだピンク映画という呼称はなかった)、1963年にピンク映画なる語がつくられた、らしい。 そういえば、昔は映画館でニュース映画が上映されてたなぁ・・
ちなみに、アメリカでの類似映画のフィルムはブルーに着色されているため〔ブルーフィルム〕と呼ばれる。
さらにちなみに、〔ポルノ映画〕という語を用いて製作したのは、東映のが先だった!1968〜1977。
当時東映系映画館は二本たてだったから、ヤクザ映画との併映。(これじゃあ子供にゃみせられんな(^_^;))
日活の会社方針ががロマンポルノ映画製作になるのは1971年。
テレビの普及の後、1961年の新東宝の倒産がさらなる影響を与えた。新たな新東宝と大蔵映画というピンク映画二大会社ができ、一般映画経験スタッフたちがピンク映画界に参入してきた。
日活がロマンポルノ映画を作り始めて一定の成功もあり、東映セントラル・東活・ミリオンフィルム(後のジョイパックフィルム、現在ヒューマックスシネマ)、といったメジャー系のピンク映画製作会社もできた。
しかし、1980年代後半からアダルトビデオに市場を奪われ、それらメジャー系会社は撤退、1988年にっかつロマンポルノ映画撤退。
ピンク映画館は個人経営がほとんどで、観客数の減少と経営者の高齢化で、上映館も減少。
ピンク映画はもはや風前のともしびか、と思いきや、固定客あるみたい。
配給会社は、新東宝と大蔵系のオーピー映画、それに新日本映像。
製作プロは、国映・坦々舎・サカエ企画・多々プロ・ネクストワン・それとゲイもののENKプロ、これだけ。
ごく大ざっぱにいってしまえば、要するに、どの会社が作ったかによってピンク映画かポルノ映画かになるだけのこと、かも。。?
ポルノ映画とピンク映画との違いはそれだけのことなんじゃないかな?
つまり、
ポルノ映画というと、やはり日活のロマンポルノ映画がすぐに思い出される。東映もポルノ映画をつくっていたけど。それ以外で「ポルノ映画」というのは?、ないんじゃないか?と思う。
今では、おそらくポルノ映画なるものはなくなっていて、ピンク映画なるものは細々と命脈を保っているのだろう。
あたかも、地方都市や温泉町のストリップ劇場や大衆演劇のように。?
浅草のストリップ劇場では、幕間にコントや漫才とかがなされていた。 今でもやっているのだろうか……?浅草ストリップ劇場(特にフランス座)出身のコメディアンて、今では有名になっちゃった人がいるよね。。
ピンク映画出身の(?とされている)監督をあげておく。
若松孝二。この人は・・・どうも、簡単には書けない、みたい。まぁ、ピンク映画出身と言っていい。と思う。
小水一男(通称ガイラ)この人が監督した『ほしをつぐもの』を観た記憶あり。若松孝二の若松プロダクションで活躍していた。
高橋伴明も、若松孝二のもとで修行してきていた。
中村幻児は、ピンク映画出身だな。
和泉聖治、この人は両親もその世界の人。だね。この人の監督映画『この胸のときめきを』(脚本・中岡京平。。!!)、好きな映画です!!
山本晋也、この人、日芸卒後テレビ局NETからスタートだ、いろいろやってる。俳優は余技かと思ってたら。。
滝田洋二郎、高校卒業後にポルノ映画会社入社。東映ポルノ映画を製作していた向井プロ、後の獅子プロ出身。その後にっかつロマンポルノ。
瀬々敬久もいた。この方も一般映画に進出。『感染列島』はみたな。獅子プロにいたってぇから、滝田洋二郎と同じだ。滝田洋二郎の後輩にあたる。(滝田洋二郎は『おくりびと』でぐっと有名になっちゃったね)。メッチャたたきあげだぁ!
井筒和幸も、ピンク映画からのスタートだった。。
黒沢清は、ピンク映画のくくりにされている『神田川淫乱戦争』(1983)で劇場映画監督デビュー。
周防正行は日活ロマンポルノ出と私は思ってたけど。?・・違った。周防正行は、若松孝二や高橋伴明のもとで修行してきていた。
監督デビュー映画『変態家族 兄貴の嫁さん』(1984)は、ピンク映画ものだった。