教会の魅力は身体性にある
毎週いろんな教会に通っています。教会通いを本格的にはじめたのはコロナ禍でのことだったので、当時は省略されたり縮小されていた聖餐式が復活し、讃美歌もフルコーラスで歌われるようになったのは、外野から見ていても嬉しいことです。
コロナ禍では多くの教会がオンライン礼拝を開始し、今も続けているところが多いと思います。僕は律儀に各教会まで行って礼拝に「参加」しているわけですが、何が面白くて毎週毎週ほぼ欠かさず礼拝に通っているのだろうかと、ずっと考えていました。
現時点での結論ですが、それは教会の礼拝が持つ「身体性」にあるのだと思います。
礼拝の中には、人間の五感を刺激するさまざまなイベントが盛り込まれています。典礼の言葉を聞く、聖書の朗読を聞く、オルガン演奏や合唱を聴く、平和の挨拶を交わす、信条や主の祈りや交読詩編を唱和する、讃美歌や聖歌を歌う、それそれのイベント毎に立ったり座ったりする。教会や教派によっては、言葉に合わせて身体の前で十字を切ったり、ひざまずいたりすることもあります。(コロナ前には、平和の挨拶で握手したりハグしたりする教会もありました。)
僕は信者ではないので参加できませんが、聖餐式に参加する信徒はこれらに加えて、聖餐のパンやぶどう酒(ブドウジュース)を味わうという、味覚への刺激が加わります。未信者への陪餐が許されない教会でも、カトリックや聖公会など、神父や牧師の前に進み出て祝福を受けられる礼拝もあります。
これらは礼拝のプログラムに盛り込まれているので、教会によってはこれは教会の規模とは無関係ですし、構成員の性質(年齢構成や性別分布など)とも無関係です。礼拝の進行に合わせて、立ったり座ったり祈ったり歌ったりする「体験」は、教会の礼拝に参加しなければ味わえません。
僕はオンライン礼拝を否定はしませんが、自分はそれにまったく魅力を感じません。それは教会での対面礼拝には存在する「身体性」が、オンライン礼拝では味わえないからです。
オンラインでも式の進行に合わせて、立ったり座ったり歌ったりするというのはありだと思いますし、オンラインで礼拝に参加している信徒の多くがそうしているのかもしれません。しかし僕の求めている礼拝参加は、その行為にまつわる周囲のさまざまなことも含めて存在するのです。
聖書を読むとき目的のページがなかなか見つからずにまごまごしてしまうとか、歌い慣れない讃美歌で音程を外してしまうとか、使徒信条や主の祈りの訳文が慣れたものと違うので読み間違えてしまうとか、そうした間違い、失敗、気恥ずかしさなども含めて、礼拝への参加なのだと思っています。
教会は建物のことではなく、信徒の共同体であり、生身の身体を持った人の群れです。それを実感させてくれるのが、典礼の中のさまざまなイベントであり、これをなくしてしまったら、教会が教会である意味はなくなると思います。
生成AI技術の発達で、今後は牧師に代わってAIが説教原稿を作って朗読することもできるようになるでしょう。その日の教会暦や聖書朗読箇所、個々人の求めに応じて、適切な聖句を織り交ぜながら即興で説教を作るぐらいのことは、すぐにでも可能なような気がします。いずれはVTuberならぬバーチャル牧師によって、大規模なオンライン礼拝を行うバーチャルなメガチャーチも誕生するに違いありません。
しかしそこに「身体性」がなければ、僕はその礼拝に魅力を感じないと思うのです。
「現実の教会など不要。これからは聖書と動画配信さえあれば、既存の教会の代替になり得る」といった意見に、僕はまったく賛成できません。オンライン教会やオンライン礼拝は対面礼拝を行う教会を補完する機能は持ち得ても、現実の教会だけが持つ身体性は持つことができないと思うからです。