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キリスト教徒以外は地獄に行くの?
「キリスト教というのは、キリスト教徒だけが天国に行き、それ以外は地獄に落ちると教えている宗教だ」
そう考えている人は少なくないと思います。これを簡潔な標語にしたのが、「信じる者は救われる」という言葉でしょう。キリスト教を信じる人は救われて天国に行き、信じない人は救われないまま地獄に落ちるという二者択一の論理。じつにシンプルです。
これはキリスト教に対する大きな誤解だと思うのですが、問題はその誤解がキリスト教の外にいる人たちだけでなく、キリスト教徒の中にも広く共有されていることかもしれません。もっとも「信じなければ地獄行き」と考えるのが、歴史の中ではキリスト教の多数派であり主流だったのですから、単純な「誤解」とも言い切れないのかもしれませんが……。
しかしキリスト教の中には、「信じる者は救われる(天国に行く)が、信じない者も救われる(天国に行く)」と考える人たちもいます。死ねば誰もが、同じように天国に行く。こうした考えを「万人救済説」と呼びます。
これは「イエスがその命によって救済した範囲はどこまでか?」という、キリスト教の基本的な教義に関わる話です。
イエス・キリストは多くの人々の罪の身代わりとして、十字架の上で死にました。イエスが身代わりとして処罰されたのですから、イエス・キリストに結ばれた人は、自らの罪によって神に裁かれることがありません。罪があったとしても、その罪をイエス・キリストへの信仰によって赦され、本来受けるべき罰を免除されるのです。結果として、イエス・キリストを信じる人は天国に行ける。これがキリスト教の基本的な考え(教義)です。
ではイエス・キリストは、自らの命を投げ出すことでどのくらいの人々を救ったのでしょうか?
イエスは生前から、神によって何らかのカリスマを与えられた特別な存在だと考えられていました。でもイエスが人間であるなら、彼がどれほど立派な人として神に愛されていたとしても、その死によって救える範囲は限定的になるはずです。人間は有限の存在ですから、救える範囲も限りがあります。イエスが命を投げ出すことで救えるのは、数十人でしょうか。それとも数百人、あるいは数千人でしょうか。場合によっては数万人かもしれません。たった一人の命で、それだけの人が救えれば、それはそれで立派なことかもしれません。
しかしキリスト教の発展の中では、かなり早い段階から、イエスは立派な人であると同時に神そのものだと考えられるようになりました。
神は無限で、永遠で、完全な存在です。神が自らを犠牲にしたなら、それと引き替えに救済できる範囲も、無限で、永遠で、完全なものに成り得ます。神は全人類を救えるのです。イエス・キリストが神ならば、十字架の死にはそれを実現できるだけの価値があります。
そう考えるなら、「万人救済」でもまったく問題ないはずなのです。
「キリスト教を信じない人でも救われて天国に行ける」という万人救済説は、キリストの十字架の完全性や、神の救いに対する全幅の信頼があってこそ生まれた理論です。罪深い人間を、何の対価もなしに愛し、救おうとするのが、キリスト教の神です。万人救済を主張する人たちは、その神が「信仰」という対価すら求めないと考えるのです。
イエスは良き羊飼いであり、迷い出た一匹の羊があれば、他の羊すべてを野に置いたままでも探しに行きます。野に残された行儀のいい羊たちは、「群れを離れて迷ったのは自己責任じゃないか」と不平不満を言うかもしれませんが、それでも羊飼いは迷える羊を探しに行き、必ず探し当てて自分の群れに戻すのです。
これが万人救済説の主張する神の姿。そして聖書は、まさに神をそのような存在として描いているのです。
(本投稿は2021年8月7日執筆の記事を加筆修正しました。)