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映画秘宝REVIEW傑作選 井口昇監督寄稿編3 武智鉄二先生の『白日夢』 少年の日のエロ心を木っ端微塵に粉砕!

文:井口昇
初出:『映画秘宝』Vol.2『悪趣味邦画劇場』1995年

『白日夢』は日本では数少ない幻覚映画であり、日本の本番ポルノ第二号であり、思春期まっさかりの僕(当時小学校6年生)にとっては憧れの映画であった。
 当時のマスコミはこぞってこの映画を雑誌類で取り上げ、(あの渋い佐藤慶が出る本番映画ということで)超話題作になった。特に女性週刊誌には女性向けの「ちょっとエロティックな芸術映画」として紹介されたりもした。まぁ、昔でいう『エマニエル夫人』か、最近でいうと『ベティ・ブルー』の日本版みたいなもんでしょうか(どちらも女性客で満員になった)。
 ある日僕は、母が買った『週刊明星』に掲載されていた『白日夢』のスチールをこっそり盗み見た。ドキドキした。その写真には、デパートのエスカレーターを昇ろうとしている全裸の愛染恭子と、目を最大級に見開いて笑っている佐藤慶の、ドラキュラのコスチューム姿が写っていた。
 僕はそれを見て、
「なんだこりゃあ」
 と思ったが、さらに次ページには全裸の愛染恭子を、海賊フック船長の格好をした佐藤慶が抱き上げている写真が載っており、よけいに僕の幼い心を混乱させた。
「一体どんな映画で、果たしてどんないやらしい事が起きるんだろう」
 これらの写真から様々な想像をし始めると、自慰と夢精を覚えたばかりの僕の下半身は破裂せんばかりに熱くなっていた。
 映画が公開され、女性を中心にヒットしだすと僕の中の「白日夢を見たい願望」はどんどん高まっていった。が、悲しい事に成人映画だったので見る事はできなかった。僕は自分が小学生である事を呪った。そしてその口惜しさから、大人になったら、死ぬほど『白日夢』を見続け、愛染恭子のような恋人をつくり、佐藤慶のようなセックスをやってやってやりまくるんだと心に誓った。
 しかし、それから長い月日がたち、僕も25歳になったが、いまだに童貞のようなものである。セックスとは誰でもやれるものだと思っていたが、そうでない事が判った。さらに、『白日夢』の事など最近まですっかり忘れていた。もはや自分の中ではどーでもいい存在になっていたが、当時の事を思うと懐かしくなって急に見たくなった。こうして僕は公開から約15年たって、初めて『白日夢』と対面した!
 原作はなんと“あの”谷崎潤一郎である(これは初めて知った)。さらに監督は前衛“能”の第一人者、武智鉄二先生である(これだけでスゴく格調高そうだ)。歯科医で麻酔を打たれた青年が歯医者と令嬢のセックスの幻覚を見る、といった物語をどんな華麗な映像で、エロティックに、オシャレに、絢爛たる白日夢を見せてくれるのかとワクワクしてビデオの再生ボタンを押した。が……。
 貧乏くさい映画だった。俺はこんな映画に憧れていたのかとガクゼンとした。
 冒頭、歯科医の器具のクローズアップが、琴の音に合わせて、次々と不気味に写し出されるあたり、
「オッ!」
 と思うのだが、その直後に看護婦たちが安っぽい牙をはやしてワォーと吠える場面ですぐに
「だめだこりゃ」
 という気持ちにさせられる。
 その後も、どう見ても令嬢には見えない愛染恭子が棒読みで「誰かー、助けてー」と叫びながらスリラーカーの中でウサギさんや小人の人形達に犯されるチープなシーンでまたガッカリさせられる。
 さらにその後も、観客をどんどんガッカリさせるトリップシーンが続く。ヒロインを追ってきた主人公は、とあるディスコ(当時の最先端)で「能」の音楽に合わせて無表情で踊る愛染に出くわす。武智先生は日本の伝統文化の「能」とナウなヤング文化を合体させる事で新しい芸術を生み出そうとしたのかもしれないが見事に失敗している。さらに愛染のリズム感を1パーセントも感じさせない踊りが追い討ちをかけているのだ。
 別のシーンでは誰もいないデパートの中で愛染が全裸でピアノの弾き語りをしている。超下手クソなんだ、これが。しかも、やる気なさそうだし。
 ♫ショ〜パ〜ンのぉ、エチュードーわぁ〜、胸にふく〜木枯らし〜♪
 ……ってスゴイ嫌な気分になるのだ。
 それにしても武智先生は何でここまで何の魅力と取り柄のない彼女にいろんな芸の見せ場を作るのだろう(愛人だったのかしら)。
 とにかく全編にわたって「アート」というよりは「観る秘宝館」、「シュール」というよりは「表現の手抜き」といったテイストが充満し、安っぽい事この上ない。あの大島渚映画などで重厚な演技を見せてくれる佐藤慶もここでは、
「ワッハハハ」
 とドラキュラルックで笑ってばかりいるバカなオジサンにしか見えない。
 その上この映画には「死ぬほどかったるい」という大きな特色がある。並の退屈さではない。なぜならテオ・アンゲロプロスや相米慎二より長い長回しが連発するのだ。しかも無意味に。
 例えばヒロインが、監禁されたマンションから、カーテンをロープがわりにして脱出する場面があるとする。高校の自主映画でもカット割りや時間省略でサスペンスを盛り上げようとするものだが、武智先生はそんな事しない。全裸のままカッターナイフを探し出して、カーテンを外して、それを8等分に切って、一本に結び付けるまでが1カットでのんびりと見せてくれるのだ。その間約8分、緊張感のかけらもない。武智先生は「能」の世界の人だから「間」を重視した様式美を描いたのだろうか。あるいは「リアリズム」をやろうとしたのだろうか。しかしでき上がったフィルムからは「何も考えてない」という姿勢しか伝わってこない。
 つまり佐藤慶が「ワッハハハ」と笑っている最中に5分ほど居眠りをして起きても、まだ慶が「ワッハハハ」と笑っているような場面が、次から次へと続出しているのだ。
 さて肝心の“本番”セックス場面だが、ガマガエルのように足を開き、愛染恭子に覆いかぶさるようにピョコンピョコンとゆっくり腰を振る佐藤慶が空しくて不恰好でよい。「ワッハハハ」と脂っこい演技をする余裕などなく、「生身の男」として、気持ち良くもなさそうに“一生懸命”ピストンする彼の姿に「本当に入れている」というリアリティを感じた。さらに股間に「能」の面の映像が、ボカシがわりに合成されている事が空しさを一段とあおってくれた。そこにはエロチズムなどない。ましてやAVのような激しい快楽もない。ただ真っ白な佐藤慶の尻が動いているのが延々と(信じられないくらい延々と)続くだけだ。これを「ファッショナブルなエロス」を期待して劇場にかけつけた当時の女性たちはどんな気持ちで見たのだろう(僕はその日の夕食の事を考えながら見た)。
 うとうとと睡魔に襲われながら見終わり、「これのどこが幻覚の映像化なんだよ、武智のボケ」と、ムカつきながらもしょんぼりした。そして、もう二度と見るまいと心に誓った。
 ところが、である。その後何日たっても『白日夢』の映像が頭にこびりついて離れないのである。変に気になって仕方ないのである。佐藤慶の生首を見て笑ったり、全裸でデパートの中を歩いたり、下手クソな歌を唱ったり、人形達と共に踊ったりする愛染恭子の無感情な顔が本当に見た夢の記憶とごっちゃになって頭の中で存在しているのである。
 僕はその時気がついた。『白日夢』が「夢」という存在に限りなく近い映画である事を。「夢」と特有の無意味さ、幼稚さ、安っぽさ、不条理さ、かったるさを全て持ち合わせたこの映画は、悪夢を見ている時の嫌な気分と同じ感触がするのだ。夢の仮想体験か! もちろん、生前の武智先生はそこまで計算してないとは思うが。

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