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『シックス・センス』 監督のシャマランが聞いた声とは? 主人公はなぜコールという名前なのか? 町山智浩単行本未収録傑作選16 90年代編7

文:町山智浩
初出:『映画秘宝』2006年10月号

 風呂で髪を洗っている時、背後に誰かが立っていたらどうしよう、と思ったことはないだろうか? 布団の中から部屋の隅を見て、あの暗闇の中に誰かがしゃがんでいるかもしれない、と思ったことは?
 M・ナイト・シャマランはそんなことばかり考える子供だったという。
「ある晩、家に帰ってきたら、ドアが開いていた。誰かが中に潜んでいるのでは、と思うと怖くてたまらなかった。そんなことばかり想像して、怖がってばかりの子供だった」
 28歳になったシャマランは、子供の頃の気持ちを思い出して、霊が見える少年の物語『シックス・センス』(99年)のシナリオを書いた。
 I see dead people.(僕には死んだ人が見える)
 このセリフをいったん書いてからシャマランは削除した。10歳の少年には幼すぎるように感じたのだ。
「その時、“声”が聞こえたんだ」とシャマランは言う。その“声”はこう言った。「そのセリフを元に戻せ」。
 シャマランは言うとおりにした。果たして「I see dead people」はその年の流行語となり、『シックス・センス』は全世界で700億円を稼ぎ、映画史上に残る空前のヒット作になった。
「その時以来、僕は“声”を信じるようになった」
 シャマランは、自分の脚本だけを監督してきた。通常、ハリウッドでは何人もの脚本家やスクリプト・ドクターの手を経て徹底的に書き直されていくが、シャマランは誰にも一字一句シナリオをいじらせない。編集についても、ハリウッド・メジャーの映画でファイナル・カット権を持つ監督は、スピルバーグやイーストウッドなど「巨匠」を除くと、シャマランだけだ。『サイン』の撮影中、彼が「今の僕の演出はよくなかった。やり直そう」と言ったら、メル・ギブソンが「シャマランが自分の間違いを認めた! 信じられない!」と叫んだという。
 誰の意見も聞かない男シャマランが唯一、耳を傾ける“声”とは一体何か?

●ナイト

 M・ナイト・シャマランは70年にインドで生まれた。両親はともにアメリカに渡って医者として成功していたが、息子を産むために故郷インドに戻っていた。シャマランの名前の最初の「M」は、本名マノージの頭文字だ。
 マノージ・シャマランは生後半年でペンシルヴェニア州フィラデルフィアの郊外に移った。両親はヒンズー教徒だったが、躾のため、息子をカソリックの私立小学校に入れた。そこでシャマランはたった1人のインド系で、異教徒だった。教師はManojという名前を読めず、子供たちは笑った。幼いシャマランが味わった除け者の孤独は、彼の全作品の主人公に影を落としている。
 シャマランはキリスト教徒ではなかったが宗教を超えて、Belief(信仰、信じること)に深く興味を抱いていった。インド人の彼はアメリカ・インディアンの宗教に魅了されていった。特に「クレイジー・ホース」や「シッティング・ブル」などの奇妙なインディアンの名前に魅了された彼はラコタ・インディアンに関する本を読んで、自分の名前にふさわしい言葉を見つけた。
「昔むかし……」インディアンのお祖父さんは孫に寝物語を聞かせる時、夜空を仰ぐ。それは宇宙だからだという。夜は物語を語る時、宇宙を感じる時だ。シャマランは発音しにくいインド名の代わりに、自らにNight(夜)というミドルネームをつけ、それ以降は友達にも自分をナイトと呼ばせるようになる。

●怒りをこめて祈る

 シャマランの両親は、息子を自分たちのような医者か弁護士にしようと思った。しかし、彼は12歳の頃に父からもらった8ミリカメラで、映画に夢中になってしまっていた。
 15歳で最初の長編映画のシナリオを完成させてプロのプロデューサーたちに送りつけた。その脚本につけた手紙では「いくつ化のハリウッドの映画会社が既に興味を示しています」というハッタリをかますことも忘れなかった。
 大学は両親の反対を押し切ってNYUの映画学科に進んだ。
「学校では皆ゴダールの話ばかりしていた。『レイダース 失われた聖櫃』みたいな映画に夢中だったのは僕ぐらいだった」
 シャマランは70年代ハリウッド革命期の映画が好きだった。『エクソシスト』『ゴッドファーザー』『JAWS/ジョーズ』、特に尊敬したのはスピルバーグだった。「自分の個人的ビジョンを追求した作品が同時に一般大衆の心を掴む。そのやり方をわかっているのはスピルバーグだけだ」
 NYU在学中、22歳のシャマランは初めての長編映画を作った。裕福な両親が75万ドル(約8000万円)も資金を援助してくれた。この『怒りをこめて祈る』は、シャマラン扮するアメリカ生まれの若者が、両親に勧められて故国インドに交換留学生として旅をする。しかしそこで見たものは貧困、カースト制度、男尊女卑、古臭い因習の数々だった。人々の顔は自分と似ているけれど、そこはまったくの異国だった。この作品には、アメリカではインド人として疎外され、インドでもアメリカ人という異邦人でしかないシャマランの居場所のない孤独が描かれている。
『怒りをこめて祈れ』は自主制作の個人映画だったが、そのクオリティは商業映画として充分で、NYの劇場で1週間公開された。
「製作費12億円くらいの映画に見えた」芸能人専門の弁護士マーク・グリックはシャマランの才能を発見して、ハリウッドのエージェントに彼を紹介した。映画界への足がかりができた。
 その頃、シャマランは子供のための精神科医を目指すインド系の美少女に一目ぼれした。2人で中華レストランで食事をし、勘定書と一緒に出てきたフォーチュン・クッキーを開けた。中に入っていたクジを読んで、彼女は「どういう意味かしら」と首をかしげた。「このクジ、『彼はもうあなたにひざまずいています』と書いてあるわ」。それを聞いたシャマランはその場にひざまずいて言った。
「結婚してくれないか」
 2人は結婚した。まだ若く、仕事はなかったが。

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