「袴田巖さんは冤罪事件に巻き込まれた人というネガティブな印象でしか語られないことが、私には残念に思えるんです」 死刑冤罪との闘いを追ったドキュメンタリー『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』。58年を経て完全勝利した不屈のチャンピオン
取材・文=長野辰次
死刑冤罪をテーマにしたドキュメンタリー映画の力作が、2024年は相次いで劇場公開されている。女児2人が殺害遺棄された「飯塚事件」を題材にした『正義の行方』(映画秘宝8月号に木寺一孝監督のインタビュー記事を掲載)が4月に公開、「和歌山毒カレー事件」を題材にした『マミー』(映画秘宝公式noteに二村真弘監督のインタビュー記事を掲載)は8月に公開され、それぞれ大きな反響を呼んでいる。
2024年冤罪映画ドキュメンタリーの第3弾となるのが、『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』だ。味噌製造会社の専務一家4人が殺害された「袴田事件」の犯人として死刑宣告されていた袴田巖さんは、2024年9月26日に再審無罪判決を下された。死刑囚という汚名をきせられた58年にも及ぶ袴田さんの闘いを、本作は159分間にまとめている。
笠井千晶監督は、静岡放送の報道記者時代から「袴田事件」を22年間追い続けている。そんな笠井監督に地道な取材を重ねてきた心情と、「冤罪事件はなぜ起きるのか」という問いに答えてもらった。
■テレビ局退職後も、自費で続けたドキュメンタリー取材
――袴田巖さんは、姉の袴田秀子さんが献身的に支援活動をしてきたことが知られています。秀子さんと笠井監督は意外な関係性で結ばれていたそうですね。
笠井 静岡放送に入社し、報道記者になって初めて「袴田事件」のことを知ったんです。それで、事件のことをあまり詳しくは知らないまま、秀子さんに話をおうかがいに訪ねたんです。それが秀子さんとの出会いでした。まもなく、本社のある静岡市から浜松支局に転勤することになり、浜松で暮らしている秀子さんに「浜松のことをいろいろ教えてください」と電話でお伝えしました。すると数日後に秀子さんから電話があり、「私が持っているマンションの部屋が空いてるけど、あなた入らない?」と言われました。自分でも部屋を探したのですが、秀子さんのところが一番居心地がよかったので、そちらに入居することにしたんです。3年間、大家さんと入居者の関係でした(笑)。
――当時の静岡放送では、「袴田事件」を取り扱っていたんでしょうか?
笠井 再審請求の決定や会見などを弁護団が開いた際は、歴代の記者たちは取材してニュースにしていましたが、当時の袴田巖さんは弁護士や家族と面会することさえ拒んでいたこともあって、支援活動も低迷していた時期でした。私のように「袴田事件」のことを深く掘り下げて取材してみようと考えている記者は他にはあまりいませんでした。私の場合は、うちの母がお歳暮やお中元を持ってあいさつに来たり、静岡県内の私の実家に秀子さんに遊びにきていただいたりと、家族ぐるみでのお付き合いをさせていただき、それが今もずっと続いている感じです。2004年には袴田巖さんが面会に応じなくなった理由を掘り下げたドキュメンタリー番組『宣告の果て ~確定死刑囚 袴田巖の38年~』のディレクターを務め、それが私にとって初めてのドキュメンタリー作品になったんです。
――2011年以降、笠井監督は袴田さんの取材と並行して東日本大震災の被災地への取材も重ね、ドキュメンタリー映画『Life 生きてゆく』(2017年)や小学館ノンフィクション大賞を受賞した書籍『家族写真 3.11原発事故と忘れられた津波』(小学館)なども手掛けています。
笠井 その頃は、名古屋の中京テレビに契約ディレクターとして勤めていました。平日は名古屋で働いて、週末は袴田さんの家に行くか、深夜バスに乗って東北の被災地を回り、撮った映像の編集作業をしているか、チャリティーの上映会をやっているかでした。そんな生活を数年間続けていました。取材はすべて自費です。週末は遊びに行ったり、買い物したりする代わりに、その分の時間とお金をすべてプライベートの取材に当てていました。狂った生活を送っていました(笑)。
――静岡放送、中京テレビを退職後も、笠井監督は自腹で取材を続けてきた。そうした常軌を逸した情熱なしでは、ドキュメンタリー映画はできないようですね。
笠井 でも、そこまで気負って取材をしたわけでもなかったんです。取材でたまたま知り合い、親しくなった人たちにまた会いたい、当然のように会いにいくという感覚だったんです。気がついたら、5年~10年と続けていた感じです。
――使命感だけで、取材を続けたわけではなかった。
笠井 そうだと思います。秀子さんはいつも背筋をピンと伸ばしている印象が私にはあります。そんな秀子さんの姿に胸を打たれたから、私の取材も続いたんだと思います。
■検察が唐突に開示した48時間にわたる録音テープ
――袴田巖さんが2014年に釈放された際は、笠井監督は同じワゴン車に乗ってカメラを回しています。また、「袴田事件」の死刑判決文を書いたことを悔やみ、第一審の内情を公表した熊本典道元判事と巖さんが面会した場面も、笠井監督はカメラに収めています。決して、美味しい瞬間だけを狙って取材していたわけではないんですね。
笠井 狙って撮れるものではないですね。取材というよりは、秀子さんの付き添い的な感覚です。秀子さんはお元気ですが、年齢のこともありますし、携帯電話をお持ちではないんです。それで巖さんが釈放された際も、私としては何かお手伝いできればと思い、ご一緒させていただいた形です。熊本さんと対面した際も、秀子さんから「今から巖を九州へ連れていく」という電話が朝あり、熊本さんのお世話をしている女性とも私は繋がっていたので、「明日、会えませんか?」と連絡をしてから、袴田さん姉弟と一緒に新幹線で九州へ向かったんです。
――本作の中でとりわけインパクトがあるのは、袴田巖さんを取り調べる捜査官とのやりとりを記録した音声です。
笠井 2014年12月に静岡県警の倉庫から見つかったとされている録音テープです。同年3月に巖さんが釈放され、それまで弁護団がいくら要請しても出されることのなかった取り調べ中の様子を録音したテープが、唐突に検察経由で開示されたんです。警察、検察が何を思って録音テープを出してきたのかは不明です。私は今回、弁護団の許可をもらった上で、48時間ある録音テープの中からごく一部を選んで使っています。
――警察、検察は袴田巖さんが釈放されたことで、少しでも印象をよくしようと思ったのか、それとも捜査組織内にも捜査のおかしさを感じていた人物がいたのでしょうか。
笠井 どうなんでしょう。巖さんが釈放されたことだし、出せるものは今のうちに出しておこうと思ったのかもしれません。県警にどういう経緯で開示したのか問い合わせたのですが、「それについてはお答えできない」ということで真相はわからないままです。弁護団の依頼で録音テープを解析した心理学の専門家によると、「捜査官たちはみんな巖さんを犯人だと思い込んでいる」とのことでした。映画の中で使いましたが「お前が4人を殺しただぞ」「被害者に謝れ」と捜査官たちは巖さんを繰り返し責め続け、自白に追い込んでいます。1日平均12時間、長い日は16時間以上も取り調べが続いています。
■司法界で冤罪事件が起きる理由
――静岡放送の記者時代には警察まわりを経験し、長年にわたって「袴田事件」を追い続けた笠井監督にお聞きします。冤罪事件はなぜ起きるのでしょうか?
笠井 袴田巖さんはなぜ殺人犯に疑われたかということなんですが、事件は1966年6月30日の未明に起き、7月4日には巖さんの部屋が捜索され、パジャマなどが提出されています。早くから警察は巖さんに目をつけていたことがわかっています。その理由のひとつは、巖さんはよそ者だったということ。清水という静岡県中部の小さな街に、巖さんは県西部の浜松から来ていたので、昔からの知り合いばかりの社会では新参者だったんです。しかも、ボクシングをやっていて、キャバレーに勤めていたこともあった。地域社会の中では、そういう人は目立つと思うんです。「あいつが怪しい」みたいな周囲の噂が、警察にも伝わり、次第に真実味を増すことになったんじゃないでしょうか。単なる噂レベルのものが、自分だけじゃなくて周囲の人も言っている、警察官たちもそう思っている、とだんだんと「あいつがやったに違いない」という思い込みに変わっていった。それが「自分たちの手で必ず検挙しなくてはいけない」という間違った正義感として暴走していったように思います。集団での暴走を誰も止めることができなくなり、死刑判決にまで巖さんを追い詰めたのではないでしょうか。「足利事件」など、「あの人はひとり暮らしの男性だ」とか「なんか怪しいよね」という噂レベルの情報から端を発した冤罪事件は他にもあります。
――本来は裁判所が客観的に審理しなくてはいけない。
笠井 それが追随してしまっているわけです。裁判所と検察はわりと人事交流もあり、警察の捜査結果にどちらも乗っていってしまった。本当は歯止めをかけなくちゃいけないのにブレーキにならず、最高裁にまで行き、死刑確定に至ってしまった。司法のシステムが機能しなかった。袴田事件の第一審の判事だった熊本さんは、事件発生から1年後に見つかったという証拠の衣類などを見て「おかしい」と考え、無罪と判断したんですが、裁判長と先輩判事は死刑だと主張し、多数決で判決が決まってしまいました。
■判決結果は、良心的な裁判官に当たるか次第
――おかしな死刑判決が下された一方、2014年に袴田巖さんの再審開始を決めた静岡地裁の村山浩昭裁判長(当時)は、即時釈放も決めました。裁判長にはそれだけの裁量があるんですね?
笠井 再審開始決定だけでなく、死刑囚の肩書きのまま巖さんが釈放されたことは前代未聞のことでした。誰も想定していませんでした。でも、裁判長の心意気ひとつで、巖さんは命を救われたんです。残念ながら今の司法の世界は、良心的な裁判官に当たるかどうかなんです。村山裁判長の英断、それにふたりの判事が同意したことで、巖さんは再審開始にたどり着くことができたんです。
――捜査方法に問題があることに警察や検察が気づいても、捜査の軌道修正ができないことも問題ではないでしょうか。
笠井 組織の怖さですね。間違ったときに、それを正すことができない。真実を明らかにしようとか、その人を救いたいといった価値観とは異なる、自分たちの立場を守ろうという保身的な考えを優先してしまうと、大きな間違いを犯してしまうんじゃないでしょうか。誰しも冤罪に巻き込まれる可能性はあるわけですから、本当に恐ろしいことだと思います。
■時空を超えたハリケーン・カーターの祈りの言葉
――笠井監督が撮った本作は、袴田巖さんのこれまでを不幸なだけの生涯としては捉えず、温かい家族のもとで生まれ育ち、ボクサーとして活躍した青春時代をクローズアップしている点も印象に残ります。
笠井 袴田巖さんは冤罪事件に巻き込まれた人というネガティブな印象でしか語られないことが、私には残念に思えるんです。プロボクサー時代には年間19試合に出場し、今も日本記録です。本来の巖さん自身のことを多くの人に知ってほしいという思いで、ボクシング協会からの協力もいただき、ボクサーとしての袴田巖さんを描いたつもりです。
――今も拘禁反応が続く袴田巖さんですが、「ナックルを当てれば、負けはせん」といったボクシング談義するときはすごくしっかりしている。「ボクサーくずれ」と警察から犯人に疑われた巖さんですが、ボクサーとして鍛えてきたことが巖さんの強さにもなっていることがわかります。
笠井 自分の経験から、確信していること、勝つための戦略を巖さんは淡々と語ってくれました。巖さんが拘禁反応で妄想しか語れない人というイメージは偏見だと思います。そのような報じ方をする多くのメディアに対する、私なりの意思表明です。やはりボクシングという競技は、自分との闘いという部分が大きいんだと思います。減量苦にも耐え、1人でリングに上がり、一対一で対峙し、勝利を勝ち取るという。ボクシングが巖さんの強さのベースになっているのは確かでしょうね。
――ボブ・ディランが歌い、デンゼル・ワシントン主演作『ザ・ハリケーン』(99年)として映画化もされた米国のボクサー、ルービン・ハリケーン・カーターへの海外取材も敢行しています。
笠井 静岡放送を辞めてNYに留学(2006年~2008年)し、ドキュメンタリー製作について学んでいたんです。当時、カーターさんはカナダのトロントに暮らしていて、NYからわりと近いので、お会いするチャンスがありました。カーターさんは「袴田事件」の起きた1966年6月に、同じように冤罪事件に巻き込まれています。亡くなったのは、巖さんが釈放された2014年でした。カーターさんが元気なときに取材できてよかったと思います。カーターさんは巖さんへの励ましを、カメラに向かって強い言葉で語ってくださったのですが、今回の『拳と祈り』に盛り込むことで、2人の共鳴する想いを描くことができて感謝しています。国境と時間を超えて、カーターさんの祈りの言葉がこの映画と共に世界に届けばいいなと思っているんです。
冤罪を闘い抜いたルービン・ハリケーン・カーターに贈られた「WBC世界名誉チャンピオンベルト」は、2014年に釈放された袴田巖さんにもリング上で贈呈され、その様子をうれしそうに見守る秀子さんの姿も本作には収められている。司法の深い闇に対し、最後まで決して屈しなかった姉弟の闘いの物語として『拳と祈り』は語り継がれるに違いない。
ドキュメンタリー映画『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』
監督・撮影・編集/笠井千晶
音楽/スティーブン・ポッティンジャー
ナレーター/中本修、棚橋真典
配給/太秦 10月19日(土)より渋谷ユーロスペースほか全国順次公開
©Rain field Production
https://hakamada-film.com/
●笠井千晶(かさい・ちあき)
山梨県出身。1998年お茶の水女子大学を卒業後、SBS静岡放送に入社。NY留学、中京テレビ契約社員を経て、2015年よりフリーランスに。長編ドキュメンタリー映画『Life 生きてゆく』(2017年)のほか、これまでに『宣告の果て ~確定死刑囚・袴田巖の38年~』(2004年 静岡放送)、『待ちわびて ~袴田巖死刑囚 姉と生きる今~』(2016年 NHK Eテレ)、『我、生還す~死刑再審「袴田事件」とDNA鑑定~』(2018年 中京テレビ)、『我、生還す-神となった死刑囚・袴田巖の52年―』(2018年 日本テレビ)などのテレビ番組を制作している。
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