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『ファーゴ』町山智浩単行本未収録傑作選5 90年代編3
文:町山智浩
初出:『映画秘宝』2007年1月号
「『ファーゴ』の撮影の最後にノース・ダゴタに行った。そこには僕たちの欲しかったものがあった。一面の雪、真っ白な空、空と地平線の境界はない」イーサン・コーエン
「その風景は重々しく心にのしかかってくるようだ。山もない、森もない、ただ荒涼とした大地がどこまでも広がっているだけだ」ジョエル・コーエン
2001年12月、ノース・ダコタ州ビスマルクの町外れの雪の中で若いアジア人女性が死んでいるのを、地元のハンターが発見した。持っていたパスポートから、女性の身元はコニシ・タカコ(28歳)と判明した。彼女は1ヶ月前に東京からアメリカに入国したばかりだった。
地元の警察官は、その前日に彼女を見かけて声をかけていた。真冬のノース・ダコタにはありえないミニスカートを履いていたからだ。彼女は英語がほとんど話せなかったが、手書きの地図を出して警官にこう説明した。
「わたしは映画『ファーゴ』のなかで、誘拐犯人のスティーヴ・ブシェミが雪の中に埋めた身代金100万ドルを探しに来たんです」
彼女は信じていた。コーエン兄弟の映画『ファーゴ』(96年)の冒頭に掲げられる字幕を。
「これは実話である。この映画で語られる事件は1987年にミネソタで起こった。遺族の要望により、人物の名前は変更した。それ以外のすべては、この事件で亡くなった人々への敬意を込めて、事実どおりに描かれている」
●ミネソタの兄弟
コーエン兄弟の兄ジョエルは54年、弟イーサンは57年に生まれ、ミネソタ州ミネアポリスで育った。父はロシア、母はラトヴィアから移民したユダヤ人の孫で、2人とも大学で教鞭をとっていた。
ミネソタでいちばん高い山は700mだが平地の標高が360mだから、高低差はたった340m。冬は零下40度まで下がる。この寒々しく退屈な田舎で、ジョエルは楽しみを見つけた。8ミリ映画だ。ジョエルとイーサンはテレビで観たゲテモノ映画の好きなシーンを自分たちでリメイクして遊ぶようになった。
高校を卒業したジョエルはニューヨークに行き、NYUで映画を学んだ。卒業後、ジョエルはNYの編集スタジオに就職して、『魔界からの逆襲』『ナイトメア』(81年)など低予算ホラー映画の編集アシスタントを務めた。そのうちの1本がサム・ライミの『死霊のはらわた』だった。ライミは当時22歳で、ジョエルの弟イーサンよりも若かったが、自分で資金を集めて商業映画を監督し始めていたのだ。
同じ五大湖地方のミシガン出身のライミとジョエルはすぐに仲良くなった。そしてライミから映画の資金集めのノウハウを教えてもらったジョエルはブリンストン大学で哲学を学んでいた弟イーサンを呼び出して、自分たちの映画を作ることにした。
●ブラッド・シンプル
84年、コーエン兄弟は最初の監督作『ブラッド・シンプル』を自主製作した。タイトルはダシール・ハメットのハードボイルド小説『血の収穫』に出てくる表現で、追い詰められた人間の心理状態を指している。ハメットからはタイトルだけで、ストーリーはジェームズ・M・ケインの小説を参考にしたとコーエン兄弟は言う。
ケインは30年代のパルプ(三文小説)作家。三面記事で読むような男女の痴情犯罪をメロドラマ風サスペンスに描いたが、何の救いもない殺伐とした人物描写で、後にハードボイルド文学として評価される。34年にベストセラーになった『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、46年にハリウッドで映画化され、フィルム・ノワールの傑作になった。年上の食堂経営者と結婚した元美人コンテストの優勝者の妻が浮気相手と共謀して夫を殺害する陰惨な物語だ。そこに『ブラッド・シンプル』は悪役として私立探偵を加えた。
ケインを選んだ理由についてイーサンは「低予算映画にするのにおあつらえ向きの話だから」と言っている。なにしろ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の主な登場人物は3人しかいない。
コーエン兄弟はすべてのシーンをまずストーリーボード(絵コンテ)に描いて、それを忠実に撮影していった。現場でのアドリブや即興演出を廃し、画面の隅々まで計算された、人工的な映像、それは兄弟の作品の特徴だ。撮影は、NYUでジョエルの学友だったバリー・ゾンネンフェルドが担当。彼は後に『アダムズ・ファミリー』や『MIB』を監督する。
『ブラッド・シンプル』のクレジットは脚本ジョエル&イーサン、監督ジョエル、製作イーサンとなっているが、すべて兄弟の共作。編集も兄弟のペンネームだ。
ヒロインのアビー役は最初、ホリー・ハンターに決まったがスケジュールが合わず、彼女はルームメイトのフランシス・マクドーマンドを推薦し、彼女の映画デビュー作になった。ジョエルは既に結婚していたが、妻と別れて、マクドーマンドと結婚した。
●心なきテクニック
『ブラッド・シンプル』は批評家に絶賛された。光と闇の強いコントラスト、広角レンズを多用して遠近感を誇張した画面構成は、ドイツ表現主義とそれに影響されて生まれたハリウッドのフィルム・ノワールと比較された。
次にコーエン兄弟は友人サム・ライミの監督作『XYZマーダーズ』(85年)のシナリオを提供した。奇怪な2人組の殺し屋(ポール・スミスとブライアン・ジェームズ)に狙われた若者の話で、『ブラッド・シンプル』と同じく殺し屋を扱っているが、ライミが溺愛する『三馬鹿大将』に影響されたドタバタ・コメディになっている。
コーエン兄弟は20世紀FOXから資金を得て『赤ちゃん泥棒』(87年)を監督した。婦人警官(ホリー・ハンター)とチンピラ(ニコラス・ケイジ)の夫婦が不妊症のために、大金持ちの家に生まれた5つ子の1人を盗むという話。こちらもドタバタ・コメディで、短いカットを畳み掛けるハイスピードな展開はマンガのようだ。広角レンズによる左右対称の画面構成はスタンリー・キューブリックの影響だが、やはり作り物じみたマンガっぽさを生み出している。クライマックスの赤ん坊を取り返しに来た賞金稼ぎとの決闘は、まるでカートゥーン「ロードランナーとコヨーテ」の実写版だ。ここではサム・ライミが『死霊のはらわた』で開発したシェイキー・カム(カメラを地面ぎりぎりの高さでトラックアップする)がやたらと使われ、カメラはアリゾナの荒野のハイウェイをビュンビュン疾走する。
『赤ちゃん泥棒』は興行的にはまあまあだったが、批評家からは『ブラッド・シンプル』のように絶賛されなかった。『赤ちゃん泥棒』は、登場人物はみんなひたすら愚かに描かれ、観客は誰も応援する気になれない。コーエン兄弟は全員をバカにしているように見えるのだ。実際、彼らはインタビューで「僕らは『赤ちゃん泥棒』の主人公の不妊症には何の関心もない」と言っている。田舎に貧しく暮らし、不倫や不妊症に悩む教養のない人々を、コーエン兄弟は冷たく見下ろして嘲笑っている−−。NYタイムズのヴィンセント・キャンビーはズバリこう書いた。
「テクニックだけで心がない」
その批判は、以後、コーエン兄弟について回ることになる。
●ミラーズ・クロッシング
3作目『ミラーズ・クロッシング』(90年)は前作とはガラリと変わり、禁酒法時代を舞台にしたシリアスなギャング映画だった。やはり東部の小さな町で、イタリア系のマフィアとアイルランド系のギャングが殺し合っている。その間に挟まれたギャンブラー、トム(ガブリエル・バーン)が主人公だ。
本作は史上、最も映像の美しいギャング映画といえるくらいの映像美だったが、興行は大失敗に終わった。観客を遠ざけたのは、登場人物の誰にも共感できない冷たさだ。一応「ヒーロー」はトムなのだが、彼はギャングたちの殺し合いを冷ややかに見つめるだけで、観客には彼がいったい何を考え、感じているのか最後までわからないから共感のしようがない。そして、ヴィレッジ・ヴォイス紙のゲイリー・ギディンスにこう書かれてしまった。
「魂がない」
●未来は今
アメリカでは人気はないものの、コーエン兄弟はその知的でアーティスティックなスタイルでカルト的な支持を得るようになった。特にヨーロッパでの評価は高く、4作目『バートン・フィンク』(91年)はフランスのカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した。
『バートン・フィンク』はユダヤ系の作家がハリウッドの商業主義に苦しめられる物語だった。だから、次にコーエン兄弟が『ダイ・ハード』のプロデューサー、ジョエル・シルヴァーと組んで製作費2500万ドルのハリウッド大作『未来は今』(94年)を発表した時、世間は驚いた。「10分に1回、何かを爆破しろ」が口癖のシルヴァーと、冷たい映像美で知られるコーエン兄弟のどこに共通点があったのか?
何よりも観客の目を奪うのは、製作費のほとんどをつぎ込んだハッドサッカー本社のセットだ。アール・デコ調で荘厳なまでに大げさにデコレートされたロビー、オフィス、廊下、会議室。
そのビルディングこそが、ジョエル・シルヴァーを魅了したのではなかったか? シルヴァーは建築家を目指したこともある建築マニアで、フランク・ロイド・ライトの建築をコレクションし、『ダイ・ハード』ではハイジャックされる日本企業のインテリアを自らデザインしている。
コーエン兄弟のトレードマークである広角レンズで遠近感を強調した構図は、ビルの幾何学美をよりダイナミックに見せている。ゾンネンフェルドに代わって『バートン・フィンク』から撮影を受け持つロジャー・ディーキンスは最大26ミリの超広角を使ったと話している。「コーエンたちは『もっとキツい広角、18ミリはないのか?』とまで言ってたよ」
レンズは広角になるほど、画面の手前から奥のほうまでくっきりピントが会う。そのため、俳優たちは背景のディテールに呑み込まれてしまう。『未来は今』の問題はそこにある。この映画の主役はビルであって、人間たちは脇役にしか見えない。
「僕らは意識的に人工的なおとぎ話を創造しようとした」ジョエルは言う。しかし「おとぎ話」とは暖かく人間的なもので、ビルのように冷たく人工的であってはいけないのだ。
いつものコーエン映画と同じく、主人公のノーヴィルは愚直な田舎者として軽蔑的に描かれている。『未来は今』のストーリーは、飛び降り自殺をはかった主人公が天使に救われる映画『素晴らしき哉、人生!』(46年)をベースにしているが、フランク・キャプラ監督のような、朴訥な者への共感や愛情は感じられない。演じたティム・ロビンスの責任ではない。彼が同じ年に主演した『ショーシャンクの空に』を観客は今も深く愛し続けているのだから。
『未来は今』は、コーエンの作品のなかで最大の製作費をかけ、最大の損害を出した。コーエン兄弟は監督デビューして10年目だったが未だ大衆的な人気は得られず、商業的成功作もなかった。大作『未来は今』の失敗の後、コーエン兄弟は再び低予算映画に戻ることにした。今度は自分たちが生まれ育ったミネソタを舞台にして。
それが『ファーゴ』、コーエン兄弟が一般的な観客を獲得するために苦心惨憺して作った彼ら最大の成功作だ。
●ファーゴ
真っ白なスクリーン。小さな黒い鳥が飛ぶのでそれが空だとわかるが、空と地面の境界線は見えない。雪景色の中にこちらに向かってくる自動車が浮かび上がり、タイトルが出る。
『ファーゴ』
ファーゴとはノース・ダゴタ州にある実在の町の名前だ。ノルウェー民謡「迷子の羊」をモチーフにしたテーマ曲はオーケストラとなり重々しく盛り上がる。ノース・ダコタ、ミネソタ、ウィスコンシンなどのアメリカ中央の最北端には、ノルウェーやスウェーデンなど北欧スカンジナビアからの移民の子孫が多い。
雪の中を走る車に乗っているのも、ジェリー・ルンデカード(ウィリアム・H・メイシー)というスウェーデン系の男だ。彼はミネソタ州ミネアポリスからはるばる40時間もかけてファーゴまで車を牽引してきたのだ。
ジェリーはファーゴの酒場で人相の悪い2人組に会う。
「あんた、本当に俺たちに自分のカミさんを誘拐させたいのか?」
やせてギョロ目の男カール(スティーヴ・ブシェミ)が文句を言う。テーブルの上には空のビール瓶が何本も転がっている。もう1人の大男(ピーター・ストーメア)はタバコをくわえたまま天井を見て何もしゃべらない。
「あんたは身代金を8万ドル払って、半分の4万ドルと仕事に使う新車を俺たちがもらう。でも、これって意味あるのか?」
「……私は金に困ってる。女房の父親は金持ちだ」
ジェリーは妻の身代金を義父に払わせて、それを借金の返済にあてようと企んだのだ。
ジェリーがなぜ借金を作ったのか、その理由は最後まで明らかにされない。
実はファーゴはこの冒頭数分間しか登場しない。後はミネアポリスとファーゴの中間地点にある町ブレイナードが舞台となる。
「タイトルを『ファーゴ』にしたのは単に語感の問題だ」イーサンは言う。「『ブレイナード』じゃ困るだろ」
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