英国判例笑事典 エピソード(4) 「老いぼれ裁判官には、実社会のことは分からない?」
こんな浅いプールを頼んだんじゃない!
まず原則から
最初に2つ、英国の契約に関する法律の話をします。
1.相手方が契約に違反した場合に、損害賠償として請求できるのは、「相手が契約違反をしたために、得られなかった利益を回復する」のに必要な金額です。「契約がきちんと履行された状態に戻すための金額」と言い換えてもよいでしょう。
例えばリンゴを買ったら、悪くなっていたとします。そうすると「ちゃんとしたリンゴを手にする」という利益が得られなかったわけですから、新しいリンゴを買える金額が損害賠償額になります。買った服がちょっと汚れていたという程度のことなら、クリーニング費用をもらえば十分でしょう。これで契約がきちんと履行された状態に戻せるからです。
これが原則なのですが、もし相手が違反をしても、実質的には何の不利益も発生していないときは、損害賠償額はゼロということもあります。また、原則通りにしてしまうと不合理な費用がかかるときも、そうなりえます。
なお、英国法には「契約違反をした」ことを、よくないこととして追求するという考え方はありません。
2.次に、裁判では「権威ある先例(判決)」が拘束力を持ちます。数多くある判決の中で、権威を認められたものが事実上法律のような働きをします。「目次と予備知識」中の「前書きにかえて」で少しそのことに触れておきました。
もし先例が存在しなければ、新しい救済方法を発明すればいいじゃないか、というわけにはなかなかいかないのです。
ではこれを前提にお話しを始めましょう。
フォーサイス氏事件[1996]
事件の経過
フォーサイス氏(以下「F氏」)は 15,500ポンド(当時の為替レートで380万円。税別)の建設費で、最深部で 2㍍30㌢あるプールを自分の庭に作る契約をしましたが、出来たプールの一番深いところは 2㍍6㌢しかありませんでした。英国では普通に飛び込むには、最低 1㍍53㌢あればよいとされていることもあり、実際にはこの差で困ることは何もありませんでした。
F氏はプールを撤去して作り直す費用 33,800ポンド(契約した後で、ポンドの価値が30%以上も下落しているので、日本円よりポンドで比較して下さい。税別)を請求しました。その他に「快適さを手に入れられなかった損害」なども主張しました。
第1審
「現状でもプールは契約通りのものと同じように使える。それに全面的に作り直す費用は、そうしたら得られたであろう利益(→特になし)とは、どう見ても釣り合わないので非合理である」として否定されました。
ただ「単なる建設契約ではなく、『快適さ』を求める契約でもあったのだから、それを手にすることが出来なかったのは、その通りである」として2,500ポンドの損害賠償が認められました。F氏が控訴。
控訴審
一転して、「契約で得られたであろうものを回復するには、作り直す他に代替案は見つからない」ということで作り直しの費用が認められました。建設会社が貴族院に上告。
貴族院(今は「最高裁判所」に改組されています)
1848年(和暦でいうと嘉永元年です!)の英国の判例から始まって、同じ英米法圏のアメリカやオーストラリアの判例まで持ち出しながら、「作り直したからと言って何も得るところがないなら、出来上がったもの(浅いプール)と、契約したもの(深いプール)の「価値の差」が損害賠償額である、そして価値の差がない(第1審参照)なら、損害賠償額はゼロである、というのが先例に基づく答だ」としました。
しかしそのような二元論で切り捨てるのはあまりだと感じたのか、パック旅行がキャンセルされたときに、「がっかりしたこと」に対して損害が賠償された事件をもとにして、第1審の 2,500ポンド の賠償を認めました。
根拠の見付からないところには、すぐには答がないのです。
「前書きにかえて」のところで英国には、「契約に関する紙に書いた法律(成文法と言います)は部分的にしか」ないことを紹介しました。事実、損害賠償に関して、(成文、不文を総合しても)全部を網羅したものはないのです。先例だけからいうと、建設契約の違反事件では、作り直し費用全額か、浅いプールと契約通りのプールの価値の差(ゼロ)、しかないのです。そして作り直し費用は不合理なのです。
しかしそれでは一般の人に「裁判所って何という所だ!」と非難されるだろうことは、明らかでしたので、貴族院はずいぶん工夫と無理をして、第1審の 2,500ポンドの賠償を正当化したようです。
老いぼれ裁判官はやめろって?
ほんの付け足しですが、本件にかかわった定年を迎えた裁判官が、判決の中で(!)こんなことを言っています。
75才を定年とする法律に皮肉を言っているのですが、この事件を先例の枠内で、かつ常識的に裁くには、社会の現実をよく見据える必要があり、経験のある判事には、まだまだそれが出来るのだ、というのですね。
「私も法律の定めにより、『頑迷「古老」』、定年となりましたので、諸賢と共に裁判に参加するのも、本日が最後と相成りまして……」なんて、日本の裁判官は口でも言いませんよね?
ちなみに日本の最高裁判所の裁判官の定年は70才、アメリカの連邦最高裁判所の裁判官は終身の任命(定年なし)です。