さんぽ
僕はさんぽが好きだ。
目的もなく、ただ歩く。
音楽を聴きながらでも、何も持たなくても、ただ何も考えず、ボォーっと歩くのが好きだ。
「人間は考える葦である」
という言葉がある。
フランスの有名な哲学者・パスカルが言ったらしい。
葦というのは水辺に育つ、弱く細い草のような植物のこと。
パスカルは「人間は自然の中では葦のように弱い存在である。 しかし、人間は頭を使って考えることができる。 考える事こそ人間に与えられた偉大な力である。」
だと言った。
何も考えずに歩くのは、体や心にも良いと聞いたことがある。
人は考える葦だけど、考えないのもいい。
とても不思議に思う。
ボォーとしている時の方がひらめきやすいとも聞いたことがある。
ひらめく為には、根を詰めて考えるだけじゃなく、何も考えないということも必要。
何も考えていないように認識していても、頭の中では整理が行われているのだろう。
僕はなぜさんぽが好きなのだろう。
よくわからないけど、わからなくてもいいと思っている。
ただただ歩くのが好き。
それ以上でもそれ以下でもない。
そんな風に、何か物を書けたらいいなと思う。
何かを書くとき、それは本当に自分のみから、滲み出たものなのか。
そこには、いいように思われたい。賢いようにみられたい。とか、自分を写すというよりも、自分の願望や、その他諸々を投影しているように思う。
それ自体は悪いことではない。
でも僕は、たださんぽをするかのように、文章を書けたらいいなと思う。
ただ純粋に自分がそこに写し出されるように。
色んな自分がいるということを全て受け入れた先に、何もない境地。
そこに向かう為に僕はただただ書く。
外に出さなければわからない。
自分の良さも悪さも、自己完結してたら何も分かりはしない。
家の中にいたって、外の空気や気温、季節を感じることはできない。
想像はできる。
でもそれと事実は全く違う。
ただただ歩く、ただただ書く。
ならこのnoteにする必要があるのか。
「〇〇さんありがとう愛してる。」とインスタに投稿する。
直接言うたら良くない?現象。
相手の宣伝になるなら喜んで言うけれどもね。
さんぽする時、マジでどうでもいい格好で歩くか。
歩かない。
ある程度ルールに則る。
服は着るし、体もある程度綺麗にする。
人の目を最低限度気にしている。
書くことにも、それが必要だと思う。
誰にも晒されないところで書いても、もちろんいい。
でも誰かが見ているかもしれない部分で、自分を出していく。
さらけ出す。
このバランス感覚が大事だと思う。
僕は人と離れて、無人島で生きていくつもりはない。
このnoteもひとつの社会であり、つながりの延長。
リアルの延長線上にある。
その場で、どのような自分でいられるかは、リアルに直結する。
僕はnoteのためにnoteをするんじゃない。
リアルのためにやる。
それは自分のためにやるということ。
さんぽも書くも、ただただやるけれど、
大きな目的で言えば、自分のためにやる。
目的はないけど、目的はある。
そんなバランス感覚で生きていけたら。
それはとても居心地の良いように思う。