木々の囁きを紡いで
月に一度のライブ。いつものように、「Basin Street Blues」のイントロが始まる。ブラスの温かな音が響き渡る中、オカピのマコトは目を閉じ、ウッドベースの弦に触れる。店内を満たすゆったりとしたリズムは、まるで彼の心臓の鼓動のようだ。
最前列に座る年配の男性に気づいたとき、マコトは思わず微笑んだ。その男性の祖父は、かつてコンゴの密林に蓄音機を持ち込んだ探検家だった。あの日から、もう20年近くが経つ。
密林の奥深く、誰にも見つからないように暮らしていた頃のこと。朝もやの立ち込める中、突然響いてきた不思議な音に、マコトは耳をそばだてた。人間たちが残していった蓄音機から流れる音楽は、彼の知っているどの音とも違っていた。
最初に心を奪われたのは、煌めくようなトランペットの音色だった。しかし、日を追うごとに、彼はその音楽を支える深い響きに惹かれていった。それは、夜明け前の川のせせらぎや、遠雷の轟き、風に揺れる古木のうなりに似ていた。密林の中で耳にしてきた自然の音が、この楽器の中に閉じ込められているかのようだった。
その楽器の名を知ったのは、ずっと後になってからだ。ウッドベース。まるで森の巨木のように立ち、深い響きを奏でる楽器。マコトは、この楽器を手に取ることを夢見るようになった。
都会に出るという決断は、容易なものではなかった。しかし、音楽への思いが、恐れを上回った。街の公園で夜な夜な練習を重ねた日々。人目を避けながら、独学でベースを学んでいった。指は痛み、音は不格好だった。それでも、街灯に照らされた木々の下で、マコトは弾き続けた。
ある夜、帰宅途中のジャズクラブのオーナーが、その音に足を止めた。荒削りではあるが、どこか惹きつけるものがある音色。街灯に浮かび上がった見慣れない動物の姿。真摯な眼差しに、オーナーは心を動かされた。
「うちで働かないか?」
その言葉が、マコトの人生を変えた。昼は重い機材を運び、高所の電球を替え、夜は閉店後のクラブで練習を重ねた。プロのミュージシャンたちの演奏を間近で聴き、時には優しいアドバイスをもらうこともあった。
「Basin Street Blues」のソロに差し掛かり、マコトは弦を深く弾く。音が響き渡るたび、密林で聴いた蓄音機の音、公園での練習、そして今この瞬間までの道のりが、彼の心に蘇っていく。
客席からは、かすかにため息が漏れる。マコトの奏でる音には、どこか懐かしさを感じさせるものがあった。それは密林の記憶なのか、音楽への憧れなのか。ゆっくりと目を開けると、満席の店内に、温かな拍手が響き始めていた。