読書日記②『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』vol.3 ー委ねるという自由ー
noteの読書日記は少し間があいてしまいましたが、ちびちびと大事に読んで、ついに読み終わってしまいました。名残惜しい。今日も書いていきます。
わたしも、この「さびしさ」と「疲れ」に心当たりがありすぎた。
最初に「さびしさ」に気づいたのは、演劇に触れたことがきっかけだった。
影響を受けるのも、与えるのも怖い自分。その恩恵で、直接的に誰かを傷つくことも、誰かに傷つけられることも少なかったかもしれない。けれど、付随するこの分かりづらい「さびしさ」は、じわじわと、でも確実に、わたしの心身を不自由にしていたように思う。
自分で全て準備して自分でやってしまうほうが、予測不可能なことが起こる可能性は少ないし、ぜんぶひとりで決めることができるという意味での「自由さ」はある。けれど、それは「わたし」と「他者(や環境)」を分断する行為でもあるのだと。わたしはそれを「さびしい」と思う人間なのだと。影響しあうことで傷つくことが怖くて、そんな感情に無意識のうちに蓋をしていたのだけど、気づいてしまったら、仕方がない。どうしてあげようか。
ほとんど自分の分身みたいな作品を、自分の言葉でだれかに売り込み、認めてもらわなくてはいけない「疲れ」のようなものも、風舟を運営するようになってから、それはもうすごかった。お客さんが来ない日は、「お前なんていらない」と言われているような気持ちになった。もちろん実際には、そんなことは言われたことはないのだけど、お店とわたしは一心同体なのだ。
それに加えて、一緒に「悔しいね」と言える温度感に誰もいないことがすごくさびしかった。「わたしがなんとかしないと」と思い詰め、でもどこを目指せばいいかも曖昧で、当然うまくいかず、一方でみんなが出来ることを出来る範囲でやってくれているのも十分分かっていて、だから余計につらかった。誰も悪くないから。お客さんや他のスタッフさんにもたくさん支えてもらってる部分があるなかで、「勝手に孤独になるな」と自分をぶん殴りたくなる気持ちも同時に沸き起こり、そんな板挟みに疲弊していた日もあった。いや、今も全然ある。どうにも癒やされない「さびしさ」と「疲れ」を罪悪感とともに抱えていた。
うわあ。「委ねる」というのがまさにわたしにとってもキーワードだったので、ページをめくってどきっとしてしまった。風舟のコンセプトのようなものを端的に説明するのが難しく、ならば対談ごと載せてしまえと、3年ほど前にも、「委ねるという自由」というテーマでちょうど対談している部分があったのです。(読み返すと、めっちゃ拙くて恥ずかしい笑)
こんな先輩隣にいて欲しすぎる。「そういう動きのある態度」というのがやけにしっくりきた。余談だが、私はあまりひとつのことを信じられない。常に「本当にそうかな?」とどこか疑う姿勢を持っている。自分や他者に対して「身を委ねないといけない」とならないための、自分なりの処世術だと理解しているけど、わたしなりにバランスを見いだすために必要な動的な態度だったのだと整理できて、とてもすっきりした。
ひゃーん、泣きそう。心の奥にひっそり鎮座していた「さびしさ」や「疲れ」がちゃんと成仏している感じ。
風舟をはじめるときのひとつの個人的なキーワードに、「ほどいて、むすぶ」というものがあったのだけど、これは、心の奥の方でこんがらがっている分かりづらい「さびしさ」や「疲れ」をほどいて、ちゃんと外側の世界へとむすんであげることを意味していたのだと思う。
改めて、わたしは「身を委ねたい」と思えたり、「身を委ねられていたかもしれない」という瞬間を風舟でつくりたいのだと思った。それは、自分がたくさんのものに支えられていることに気づく、「一生ものの余韻」になると信じている。
そして、そのプロセスは徒競走のようなゴールに向かって早く走る類いのものである必要はないのだと。ダンスのようなステップでいいのだ。前後したり、時に相手に身を委ねたり、委ねられたり、そういうものでいいのだと思えた。
あと、半年。まだまだやり残していることばかりじゃないか。
今ならもっと身を委ねられる気がする。
それと、後任の人とのステップで生まれる何かもありそうだなとも思った。
いいところだけど、ひとまず今日はここまで。
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