おはよう。
担任の先生は優しくあるべきで、両親は僕の人生に不用意に干渉してはいけないはずで、アイツは僕をいじめたりしてはいけないはずだ。そう思いながら僕はいつも通り筆を持ち、ノートに絵を描き込む。
毎日、その日の中で記憶に残った人の姿を絵に残すことにしている。真っ黒な空をたまに見上げながら、夜風に吹かれる中で絵を描くことが唯一の趣味だ。現実をを忘れることができる現実から出た余りの時間だ。
今日は、親と進路に関して揉めてしまった。最近はこういう事ばかり起きる。
親と揉めるという事は、誰に取っても付き物だが、やはり気持ちが良いものじゃない。階段を上り、安全な空間に見える自分の部屋に籠る。
机のライトを付けると、机が本来の色に照らされる。外から聞こえる甲高い虫の音は不思議と気にならなかった。
そして僕はペンを持った。
僕の人生の選択に対して、優しく背中を押してくれそうな顔をした、両親の絵を描く。頭で浮かべたイメージを、そのまま紙の上に描写して行く。
母親の髪の毛は少しカールがかかり、白髪染めで染めた赤茶色をしている。僕を否定しない親ならば、目つきはきっと今より幾分か優しいはずだ。首は肩に向けて緩いカーブを描いている。
父親の髪の毛は短髪だ。針山のように生えていて、所々に白髪が見える。痩せているから首から血管が浮かび上がって、首筋には一つだけほくろがある。そして、顔はいつもの父よりも幾分か優しい。そういう親の顔を描いて、少し悲しくなった。しばらく影を足した後、僕は筆を置き、布団に入った。複雑な気持ちのまま眠りにつく。
夜とは違い、家族の匂いに家は包まれている。遠くから母が洗面所で身支度をしている音が聞こえてくる。僕はその音で起床し、身支度を始める。あの日喧嘩した時に座っていたテーブルに置いてあるパンを、スープで溶かしながら体に入れる。使い古したスポンジのようになったパンは口の中で溶ける。仕上げにバナナを一本かじり、歯を磨きに洗面所へ行く。
洗顔中に目を瞑っている間、昨日の夜自分で描いた両親の顔を少し思い出した。今になって思えば、ああいうことをしている自分は側から見れば、不満が溜まっているだけの惨めな子供でしかないのだろうと思った。
「それじゃ、行ってくるわ」
と、母親が僕に話しかける。僕は返事はせずとも、いつもの癖で目線をテレビから母親に移す。
母の顔は、昨日僕が描いた優しい母親の顔そのものだった。僕は怖くなった。頭の中にある昨日自分で描いた母親の絵と重ね合わせた。
「あ、そうそう」
と、母は続ける。
「あなた、美大に行きたいって言っていたじゃない。やっぱりあなたの人生なんだからあなたのしたいことをさせてあげる事が一番良いって気がついたの。ねえ、父さん」
父は軽く息を吐くような返事をしたが、僕は父の顔を見るのが怖くて、父の方は見なかった。見ていないけど、あの顔をしているのかもしれなかった。二人が向こうで話している声を聞き流しながら、僕は部屋へ向かい、荷物を持って、いつもより何分も早く家を出た。
今日は学校でアイツにいじめられた。僕は体が細く、陰気な見た目をしているから、ああいう友達が多くて陽気なタイプから見れば如何にも弱者だ。
その夜、僕はペンを持った。
協調性があり、弱い者をいじめない様なアイツの絵を描く。
ワックスで固められた髪の毛は、いつ見ても崩れていない。もちろん校則違反だ。細く剃られた眉はこめかみ辺りに向けて釣り上がっている。目つきは悪く、常に文句がありそうな顔をしている。それも直していく。自分が教師だったら、絶対にアイツの担任は持ちたくないだろう。
あくまでも想像で優しいアイツの顔を描いていく。ついでにアイツの周りにいる金魚の糞たちの絵も描いた。最後にシャツの皺を足し、ボタンはしっかりと第二ボタンまで締めたところで僕はペンを置いた。そして布団に入り、明日を待つべくして眠った。
今日の朝、両親はいつも通りの顔だったが、中身は違う。僕の人生に関して深く干渉することをやめた。昨日の優しそうな顔に違和感を感じなくなってしまっただけなのかもしれない。
親に反対されてでも、自分で決めた進路に進むつもりだった。だから親が寛容になることに対して違和感がある。少し怖かった。別人になってしまったかのようだった。
今日の朝もテーブルに置いてあったパンをスープで溶かしながら食べる。テレビでは大人たちがくだらないニュースについて真剣に話し合っていた。父は何故かテレビの前で新聞を読んでいる。父の前に置いてあるコーヒーからは湯気が立ち、その湯気は僕の座っているところまでわざわざ香りを運んで来る。その香りを嗅ぎながら、バナナを一本齧った。いつもより甘さが諄い気がした。
いつも学校の近くの路地でアイツとその仲間達と出会う。
目覚めて間も無い街を抜け、少し涼しい風が吹き抜ける路地を歩く。
今日はアイツらはいないようだ。安堵と同時に嫌な予感がした。僕は遅刻をしないように早足で学校へ向かった。
僕が校門をくぐった時、アイツらは既に僕の前を歩き、校舎へと入って行った。早足のまま、僕はだんだん彼らに近付いて行く。彼らが僕に近付いて来ているような感覚でもあった。風の音が煩く感じる。
下駄箱に着き、靴を履き替える。アイツらは仲間全員が履き替えるのをいつもダラダラと待っている。下駄箱で鉢合わせてしまった事を不運に感じたが、いつもの様に話しかけては来ない。いつもとは違う恐怖だ。
足音を消し、気が付かれないよう歩く。
しかし、横顔を見られた気がして、心臓の辺りに違和感を感じた時、
「おはよう!」
とアイツに話しかけられた。
思わず反射的に振り向くと、アイツらは、絵に描いた顔をしていた。
怖くなり、返事せずに上履きを右手に持ち、一心不乱に教室に向かった。
その日、アイツらはやはり変だった。数学の授業中に発言までしていた。更にいつもはしない掃除を手伝う姿も見た。クラスの日誌まで率先して書いていた。
その日はいつもよりも長く学校にいたように感じた。やはり、僕の絵には何かある。そう考えながら学校を後にした。
その日の夜、僕はまた夜風が吹き込んでくるバルコニーへ出た。ここでしばらく空を眺めることにした。月は相変わらずひとつしか無い。夜空をぼうっと眺めていると、宿題は後回しで、学校に着いてからやればいいと思える。
しばらくして、僕はペンを持ち、自分の絵を描き始めた。
鏡を用意して、自分を見つめる。八の字になった眉は情けなく見えるから、凛々しい形に描き換える。光が無く、生気がない目を、描き変えよう。獲物を見つけ、真っ直ぐ前を見つめている動物のような、気力に溢れる目になりたい。バルコニーの入り口の窓に映る自分の顔を模写しながら、変わりたいと願う。顔だけでなく内面も変えていこう。はっきりと自分の意見が言えて、向上心をもとう。そして——。
それから何十分もかけて、自分の顔を描いた。ペンと紙が擦れる音だけが耳に入ってくる。
影と皺を足し、満足したところでペンを置き、布団に入った。明日起きたら自分は、理想の自分に生まれ変わっていると確信しながら。
次の日の朝、いつも通りの時間に起きた。リビングへ行くと優しい顔をした父と母がいた。テーブルの上に用意されたパンを食べる。その横に置いてあるスープで口の中のパンを溶かして食べる。鼻腔をコーヒーの匂いが刺激する。父は相変わらずテレビをつけたまま新聞を読み、コーヒーを時々すする。洗面所では母親が身支度している。その音を聞きながらバナナを頬張る。そして僕は期待を込めながら洗面所に行き、自分の顔を確認する。
特に変わったところはなかった。
おかしい。描いた本人には効果が無いなんて、そんなことは理不尽極まりない。がっかりした気持ちで歯を磨いた後、僕はカバンを持ち、いつも通りの時間に出かけた。
しばらく歩いて、いつもの路地にたどり着くと、やっぱりアイツらはいなかった。もうここで会うことはなく、学校で模範的な過ごし方をするアイツらにしか出会えないのだろうか。それを悲しく感じた。
校門を通り抜け、下駄箱に靴をしまう。僕の靴箱には靴が既に入っていた。誰かの間違いだろうか。その靴を退けるわけにもいかず、僕は二段になっている靴箱の両方に靴を入れ、教室へ向かった。
朝には険しい階段を一段ずつゆっくり上る。始業時間が近付き、多くの生徒が教室に向かって行く。自分の教室は二階の端にある。重い足取りで教室までの長い廊下を歩いた。
そして教室のドアの前で自分の机に目をやると、僕は驚いた。
僕の席に僕が座っている。それに周りの人間も気が付いたのか、空気が揺れるように雑音が大きくなっていく。窓から吹き込む風はいつもより強い気がする。そして僕の席に座っている僕はこちらに振り向き、笑顔を浮かべて
「おはよう」
と言った。