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ムラブリ語の研究者に人生相談して、一緒にダンスを踊った話

朝6時に目がさめる。目が覚めるのだが、体が言うことを聞いてくれない。布団から出られないのだ。胸が苦しい。床方向に強い圧力を感じる。まるで胸を大男に押さえつけられているかのような感覚が私を襲う。

刻一刻と時間が過ぎる。6時を指していた時計はやがて7時を指し、8時を回った。もう1限の時間には間に合わないと思うと、また胸が苦しくなったがどうすることもできない。さらに1時間が経ち、またさらに1時間が経った頃ようやく起き上がり、その足で大学へと向かう。


おそらく私はマルチタスクが極端に苦手なんだと思う。Aという授業ではレポートが出され、Bという授業ではグループワークを行い、Cという授業では、、、などと、一つの期間に幾つかの物事を処理することが苦手なのだと思う。そうして、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃと思っていることがストレスにつながり、体の不調となって現れたのではないかと今では思っている。

そんなある日、一通のメールが目に入った。

ランゲージフェスティバル3 トークイベント:“英語がコスパ最強”は本当か?”

狩猟採集民族ムラブリの言語研究者 伊藤雄馬先生と自称言語オタクの編集者兼YouTube「ゆる言語学ラジオ」のパーソナリティー 水野太貴さんが語る、「英語のコスパ」とは。言語に関心がある方、英語を学んでいる方、ゆる言語学ラジオファンのみなさん、必聴です!

メールより引用

私は『象は鼻が長い』の回からゆる言語学ラジオを聴いているよくいるリスナーであり、ムラブリの回も当然聴いていた。伊藤先生は少数言語を話す人たちが住む村に実際に住み、そこで暮らす人と生活を送る中で言語を記述するというフィールド言語学者の方である。それだけにとどまらず、日本でもムラブリのように野草を食べたり、余計なものを持たないような生活を送っているという話に驚いた。

そんな伊藤先生とパーソナリティの水野さんがAPUに来るなら、なんとしてでもイベントに出席したいと思った。このトークイベントの後には、伊藤先生のムラブリ語講座もあるとのことだった。正直休みの日まで学校に行けるような状態ではなかったけれども、動かない体を無理やりいうことを聞かせて学校へと向かった。

会場に到着すると、すでにゆる言語学ラジオの水野さんと堀本さんがいらっしゃった。ほとんど毎回聴いているラジオのパーソナリティが目の前にいるという状況があまり理解できず、ヤバいほどテンパった。なんとか話しかけようと、写真いいですか?と声を絞り出した。気さくに応じてくれた二人に、

「水野さんの方が身長高いんですね」

というと、

「それがいちばんのクリシェです」

と真顔で言われた。生クリシェを聴く事ができ感激した。

イベントは、もちろん最前席で見た。途中で、水野さんにちょっとした質問をしてもらいこれもまた感激した。ああ〜ありがたや〜。

トークイベントの最後に質問コーナーがあったので、思い切って悩みを言ってみた。

「最近学校に通うのがしんどくて、特にマルチタスクが苦手なんです。もしかしてこれはドーム言語学やった方がいいって事ですかね。」

「嫌いな事への感度が高いということは、好きなことも見つけやすいってことだからいいことだと思いますよ。ドームは興味あったら一緒に作りましょう」

なるほどな〜と思った。自分が向いていないな、と思うということはそこには「偏り」のようなものがあると思う。偏りは一方から見れば「苦手」だが、別の視点から見れば「得意」である。そう思うと、少し楽になった気がした。

伊藤先生の後に水野さんが補足をしてくれた。

「トラックドライバーって腰や尻に負担がかかる仕事じゃないですか。でも痛みを無視して働くことはよくあるんです。その結果最後は、尻の骨が割れてしまうそうです。痛みに気付けるというのはいいことだと思います。」

尻が割れたトラックドライバーに思いを馳せた。痛みに強いことは果たして美徳なのだろうか。人生において、尻が割れるほど頑張る機会自体はあっていいと思う。それは果たして今なのか、考え込んでしまった。

トークイベントが終わった後に、伊藤先生にサインをもらいに行った。先生は本に署名してくれた。ありがたい。ムラブリ語講座までは時間があったので、その前に開催されているスペイン語でダンスのレッスンに参加した。まさかムラブリ語の研究者の方と横並びでダンスを踊る世界線が存在しているなんて夢にも思っていなかった。

「ウノ、ドス、トレス。スィンコ、セイス、スィエテ。」

の掛け声に合わせてステップを踏んでいく。無心になってステップを踏み続けた。途中でスペイン語の数の数え方を教わったり、本場のダンスの映像を見せてもらったりした。

ダンスのレッスンの時間はムラブリ語講座の時間に食い込んでおり、私たちは早足で教室へと向かった。

教室に入ると、机にはすでに多くの学生と職員が座っていた。私はいちばん後ろの席に陣取り、さっきまで一緒にいた伊藤先生が教室の前から入ってくるのを待った。

入ってきた伊藤先生は、気のせいかもしれないけど雰囲気が違った。なんとなく視線が遠かったような記憶がある。先生が開口一番放ったのは、ムラブリ語だった。そこから小一時間、ムラブリ語のみで行われるムラブリ語講座が始まった。

先生は学生にムラブリ語で質問を投げかけた。学生は質問文からなんとか意味を類推して、答えのようなものを返す。答えが当たっていると、当たっているような反応を返してくれる。人の一挙手一投足にここまで集中したことが今まであっただろうか。言語に頼る事ができない時、人は言語以外のものに集中するようになる。

それでも、本当に意味があっているのか、こちらの推測があっているのかを確かめる方法がない。例えば、先生が頷いている時には一体何に頷いているのだろか。そもそも頷きはムラブリでも肯定なのだろうか。まさか日本でガヴァガイ問題に直面するとは思わなかった。フィールド言語学の難しさを体験した瞬間であった。

先生が、ボトルを机の上に乗せ、それを床に落とした後に

「アパト〜〜」

と言う。意味がわからない。落下するという意味なのだろうか。でもこの言葉はボトルの中身がない様子も表しているようだった。だとすれば

「おしまい!」

みたいな意味なのだろうか。つまりは、完了?それともまた別の意味があるのだろうか。結局意味がわからないまま、授業は終了し、謎は謎のままになった。

このモヤモヤの積み重ねこそが、フィールドワークをやるということなのかもな〜と授業を受けただけの分際で思った。


季節は巡り、寒い冬になった。授業の数が減ったことによって、心身ともに余裕がうまれ研究に勤しむようになった。朝起きて、研究所に向かい、論文と睨めっこをして帰路につくような生活を続けていると、またメールが届いた。

伊藤先生がまたAPUにいらっしゃる、しかも今回はドームを持参しているとのことだった


三角を合わせることによって



ドームを作る

なぜ言語学者がドームを作っているのだろうかということを考えるには、身体性という言葉がキーワードになると思う。私は伊藤先生の議論を完全に理解しているわけではないし、この説明は的外れかもしれないが、なんとなく言語とドームの関係性について触れたい。

まず、「言葉を発する」という行為について考える。言葉を発するためには、喉を震わせたり、口の筋肉を制御したり、舌を動かしたり、その他様々な身体的な動作が伴う。体を使うことによって「言葉」は生み出されており、決して魔法の装置が喉の辺りについているわけではない。

私は英語を初めて勉強した際に、

「ネイティブのように発音できるようになるのは不可能である」

という言説に悩まされていた。曰く、小さな子供の頃から訓練していなければ脳の形が固定されてしまい、流暢に音を発音することはできないという話をいろいろなところで耳にしていた。そんな中ある友人が、

「発音は筋肉の動きなんだから、後からでも習得できるに決まってるじゃん」

と言ってくれた。訓練すれば、人は速く走れるようになるし、美しいフォームで泳ぐことができるようになる。体操だってヨガだって、最初は下手でも何度も辛抱強く繰り返すことによっていつしか体がその動作を覚える。

※練習と成果の関係性についてはこの動画がわかりやすい

この動画では運動の上達について述べているが、言語も筋肉の動きだと考えると、練習すれば発音ができるようになるという言説は一定の説得力を持つ。私はこの気づき以来、発音の練習に取り組んでいたが、これは英語話者の身体性を部分的に獲得する営みであったと言える。

以上の話は「発音」に限った話だが、それ以外にも言語と身体には深い関係がある。伊藤先生は著書の冒頭でそれについて触れている。

 じつは、ムラブリ語を話せるようになるということは、ムラブリの身体性を獲得するということでもある。日本語では温和なのに、英語を話すときだけ大胆になる人は、みなさんの周りにもいるのではないだろうか。異なる身体性には、異なる人格が宿るのだ。

伊藤雄馬(2023, p.6)『ムラブリ』より引用


ムラブリ語を話す人々には、ムラブリ語を話す人々の身体性があり、日本語を話す人々には日本語を話す人々の身体性がある。

伊藤先生の著書には同じフィールドで研究している人類学専攻の方が登場する。彼は短期間で流暢にムラブリ語を話すことができるようになり、伊藤先生を驚かせる。この経験からある気づきが生まれる。

ぼくはいままでムラブリ語ばかり見ており、ムラブリのことはなにも見ていなかったということだ。

伊藤雄馬(2023, p.76)『ムラブリ』より引用

人類学的なフィールドワークでは、実際に対象と生活を共にすることで彼らが持つ文化や風習について記述していくことを目的としている。この人類学専攻の方は、言語を媒介にしてその先にある彼らの考え方や行動様式を明らかにすることこそに重点を置いた。その結果、文法的には難があるものの、流暢にムラブリ語を話すことができるようになった。

ここで生まれる疑問は、「言語」とは何なのかということだ。一体どこまでが言語なのだろうか。

ジェスチャーは言語に入るのだろうか。彼らの文化は、言語に含まれるのだろうか。生活スタイルはどうだろうか。少なくとも、これらの要素を無視した状態では捉えることのできないことがいくつもある。言語を習得する際に、これらのことを無視したまま、言い換えると彼らの身体性を獲得せずに言語を習得したとして、それは果たして本当に言語について記述したことになるのだろうか。

おそらくこのような問題意識から、伊藤先生は持ち物を減らし、雑草を食べるようになったのではないかと考えている。これを一歩進めて、

「日本にムラブリの身体性を持つ人がいるとすればそれはどのような人なのだろうか」

という問いを実践している。つまり、ムラブリがドームに住んでいるわでもではないが、日本でムラブリの身体性を持つ人間がいたとしたらその選択肢の一つとしてドームに住むことがあげられる。少ない材料で作ることができ、ある程度頑丈で、持ち運びも容易で、組み立てもしやすいドームで生活するということは、日本でムラブリの身体性を持つということの試みの一つである。言語とドームにはこのようなつながりが(もちろんこれだけではないが)あると私は伊藤先生と会話する中で思った。


ドームを組み立て終わった後に、先生と二人だけで話すことができた。これがすごく楽しい時間だった。普段の私は読んだ本の内容をコンテクストを共有して話すことができる人がほとんどいない。ゼミ生であっても人類学の研究をしている人はほとんどいないからだ。

伊藤先生は人類学にも明るく、ただの学部生である拙い知識しか持たない私の話に付き合ってくれた。付け焼き刃の知識も総動員して、ギアを最大まで上げて話すことができた。こんな贅沢がゆるされていいのだろうか!

「卒論書き終わったら送ってください。楽しみにしてます。」

というありがたすぎる言葉までいただいた。これにより、卒論への熱量が高まったのはいうまでもない。





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