えっ、私がバーでバイトするんですか!?開店準備編
同居人から突然、「1日だけバーで働かないか?」と言われたぷー太郎の話の続きです。冒頭はこちらから。
店に入る。あたりを見回す。1度来たことがあったが、改めて見るとその荘厳さに驚いてしまう。さまざまな人間のさまざま人生が交差し、そしてまたそれぞれの生活へと戻っていく。オレンジ色の優しい光と、古い洋画を映し出すブラウン管テレビ、真っ赤でふかふかな回転椅子に、人の思いが詰まったバーカウンター。この場所にほんの少しでも関われるということを嬉しく思った。
同居人は先輩として、何をしなければいけないのかを一つ一つ教えてくれた。まずはグラスの拭き方。クロスを手に持ってグラスを磨いていくのだが、親指をクロスの中に入れて、人差し指と挟むようにして持つと、グラスに指紋がつかず、綺麗に拭けるということを教えてくれた。
この日、大量のグラスを洗い、拭くことになるのだが、この時同居人が、動作の「理由」を教えてくれたことによって、持ち方自体は一時的に忘れても、「指紋がつかないようにする」というところから逆算して考えれば正しい持ち方を導き出せるようになった。腕のいい算数の先生がそうであるように、「なぜ」の部分を理解していると、やり方を忘れてもその場で思い出すことができる。ほんの些細なことだが、私は心底感動してしまった。
そこから、すべてのカウンターとテーブルを拭いた。3つのボックス席と、10人くらいが座ることのできるカウンター、そしてカウンターの裏にあるテーブル席5つを丁寧に拭いていく。
注意深く観察していると、カウンターの所々に傷やタバコの跡があった。バーで流れてきた悠久の歴史を感じながら、拭き上げていった。その後は雑巾を渡され、店内を隅々まで磨き上げた。不思議と背筋が伸びた。
なぜか、ただただ壁を拭いているだけなのに感動していた。マスターが作り上げてきた、この素晴らしいバーを少しでも清潔にしていく作業にやりがいを感じていた。気がつくと汗ばんでいた。自分は案外労働に向いているような気さえした。
しばらく経つとマスターがやってきた。私は、第一印象が肝心だと思い、
「おはようございます!初めまして!木村と申します!本日はよろしくお願います!」
と極めて溌溂を挨拶をした。マスターは
「おぅ」
と一言呟いて、ロッカーに向かい、ジャケットへと着替えた。私は内心、
「うわーーーー。どうしよう。もうすでに無礼なことをやらかしてしまったのかぁぁぁぁ、どんな第一印象だったんだろうか。大丈夫かなぁぁぁぁ。うわーーーーー」
と騒ぎ散らかしていた。マスターがどんな人柄なのかわからない以上、考えても仕方がない。もくもくと作業を再開した。壁を拭いていると落ち着いてきた。しばらく作業をしていると、マスターが話しかけてきた。
「林くんは、バイト他に何しているの?」
一瞬自分が呼ばれたことに気づくことができなかった。「木村」の「寸」がどっかに行き、残った「木」が2本くっついてしまったようだった。急いで、
「木村です。」
と訂正した。しかしながら、マスターに林と間違われるのも悪くないなぁと後から思った。バイトしている自分に一つの人格として名前を与えるというのは悪くないアイデアだ。しかし、そう思った時にはすでに訂正指定してしまっていた。勿体無い。
「ええっと、学校で先生の補助をするバイトをやったことがあります」
嘘ではない。実際に大学でほんの少しだけアルバイトをしたことがある。二年前の春のことではあるが。
「おぅ。そうかぁ。」
それ以上の言葉はなかった。もしかしたら、
「バイトの経験もない若造が、うちの店のグラスを触っているだとぅ?不届きものが!」
と思われたかもしれない。でもそんなことを言われても仕方がないじゃないですか。と存在しないマスターのセリフに心の中で抗議した。だって、経験がないのはどうしようもないから。いやーでも昨日言われて今日きた俺、まじで偉いと思いませんか?
電話が鳴る。予約のようだ。マスターが人数を確認した。すると
「16」
という数字が聞こえてきた。電話を切ってしばらくすると、
「今日は16人の飲み放題の予約が入っているから。元々12人だったけど。交代で注文取りに行って、グラス洗って。」
人生初の飲食のバイトで、16人の団体客。それも飲み放題。なるほど、だからマスターは今日急遽人を探してたんだ。と納得すると同時に、不安も押し寄せてきた。
「もしかして、俺、注文とるの!?!?」
どうやらそうらしい。グラスを洗うだけの簡単な仕事という触れ込みで今回来たのだが、どうやら話はそう単純ではなかった。当たり前と言えば当たり前なのだが、マニュアルなんかないので大変に狼狽えた。とりあえずバーっぽい喋り方と物腰で接客しようと心に決めたが、そもそもオーセンティックバーなんぞ、多分一回しか行ったことがないので、「バーっぽい喋り方」がなんなのかも全くわからない。わからないが、そんなことを気にしている余裕はない。マスターがやれと言ったら、やるのは当たり前だ、と腹を括った。
つづく……かも……