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ラマダーン初日に起きたこと


はらがへった。



現在時刻は午後の5時。頭がクラクラする。お腹はもうすでに鳴ることをやめ、静かに食事を待っている。朝から何も食べていない。朝日が昇ってから日が暮れるまで、一切食べ物を口にしてはいけない「ラマダーン」が始まったのだ。私はエジプトのカイロにある大学に留学しており、物見雄山の留学生らしく、軽い気持ちでラマダーンを体験しようと思った。



それにしてもはらがへった。



6時10分からのイフタール(断食明け)に備えて、各々の家庭が食事の準備を始めた頃、授業が終わり部屋に帰ってきた。私は空腹を紛らわせるためにベッドでまどろみながら漫画を読んでいる。私の滞在しているホステルは、かつて日本人宿と呼ばれていたこともあり、日本語の書籍がやたらと充実してる。



はらがへった。食べ物の存在を強烈に意識する。




下の階から香ばしい香りが漂ってきた。炒めたニンニクの香りだ。空腹は嗅覚を鋭敏にする。私はその香りから刻まれた大量のニンニクがたっぷりの油で炒められている情景をありありと想像することができた。匂いは瞬時に脳まで到達し、やがて食欲のスイッチを連打する。なんとか漫画で気を紛らわそうとするが、時計を見るとまだ5時20分。やれやれ。あとイフタールまであと40分もあるではないか。ソワソワして漫画どころではない。仕方ないから、カメラ片手に外に繰り出す。



***



タマダーン初日、起床した時間はとっくに日の出を過ぎていた。それは、私が夜まで本当に何も口にできないことを意味していた。ぼーっとした頭を無理やり叩き起こして、宿題を終わらせ、急いで学校へと向かう。私は計画性というものがまるでなく、当日の朝しか宿題が手につかないのだ。いつものように、6階から壊れたエレベーターを横目に階段を駆け降り外に出た。そこには明らかな非日常があった。



まず、人がいない。のび太がどくさいスイッチを押しまくった世界くらいいない、と言ったら流石に言い過ぎだが、外を歩いている人が普段と比べてかなり少ない。さらには車もほとんど走っていない。普段は鳴り止むことのないクラクションの大合唱も、今日は聞けそうにない。いつもは道路を渡るのに相当難儀するものだが、今日は全く困らない。大通りですらスイスイ渡ることができる。イギリス占領時代に建てられたであろうヨーロッパ風の街並みが朝の黄色い光に照らされ、涼しげな風が吹いていた。その光景を見た私は、この場所が本当にカイロであるのか真剣に疑ったほどだった。


道は犬のもの


さらにはお店がほとんど開店していなかった。ホステルの出口のすぐ脇にあるピザ屋も今日はシャッターを閉じ沈黙していた。通学路にあるレストランはもちろんのこと、マクドナルドまで閉店していた。これはラマダンの間、人々は夜遅くに寝て、起きても家でじっとしてることに起因している。学校や仕事の時間も変化することが多いという。




途中、歩きタバコをしているヨーロッパ人老夫婦を見かけた。彼らはレストランがどこもやっておらず途方に暮れているようだった。ラマダーンでは日中食べ物だけではなく、飲み物やタバコ、性行為や投薬が健康上のリスクがない範囲で禁止される。また、嘘や喧嘩なども厳禁である。カイロの街ではいつでもどこでもタバコとシーシャを吸っているおじさんたちに遭遇する。彼らが全員、日が昇ってる間は喫煙しないというのはちょっとした奇跡である。



中央のDrinkiesという店は酒屋。ラマダン期間中はずっと閉店してる。


***


ラマダーンとは、イスラム暦の月の名前であり断食を指すものではない。しかし、この記事では便宜上ラマダーンという言葉に日中の断食という意味を包含させて書いている。



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シャッターが降りた街を歩き大学に到着すると、普通にご飯を食べている学生を何人か発見した。キャンパスで勉強している学生のほとんどが外国人なので、ラマダーンは関係ないという人が多い。私はコーヒーを飲んだり、サンドイッチを食べたりしている学生を尻目に教室へと向かった。



授業では1時間目にラマダーンについて扱った。クリスマスのジングルベルのようにラマダーンの歌があるらしい。

エジプトに来るまで、ラマダーンは堅苦しい宗教的な苦行であるといった勝手なイメージを持っていた。断食を行う以上、そのような側面もあるにはあるのだが、それ以上に人々はラマダーンを楽しみにしているらしい。この動画からも一ヶ月続くクリスマスのようなワクワク感が伝わってくる。実際私の友人も、「ラマダーンを家族で行うことは一大イベントで、一年の楽しみだ」と言っていた。


私はグーグー鳴る腹の虫を抑えつつ、あまり働かない頭で授業を受けた。二時間目が終わると、普段なら近くの屋台で2つのサンドウィッチを買う。一つは卵とサラダのサンドウィッチ。これはゆで卵をエジプトの薄いパン(アイーシュ・バラディ)の中で潰し、これまだエジプト風のサラダ(レタス、トマト、玉ねぎを酢などで味付けしたもの)を突っ込み、最後に塩で味を整えたものである。もう一つはパンにサラダとフライドポテトを突っ込んだサンドウィッチ。二つ合わせて10ギニー、つまり45円くらいである。


これがやたらとうまい。味付けは完全に親父の匙加減で、日によって違いを楽しめるようになっている。普段なら、道路に置かれた背の高いテーブルで立ち食いするエジプト人たちを横目に、私は一人サンドウィッチを包んでもらい、学校へと戻る。



しかし今月はラマダーン。もちろんその屋台も休業中。食事にありつくまではまだまだかなりの時間が必要になる。教室でじっと次の授業が始まるのを待っていると、クラスメイトのインド人たちがいつものようにカレーを食べ始めた。立ち上るスパイスの香りはたちまち鼻腔を刺激し、空腹を加速させた。クラスメイトの一人は、私にカレーを勧めてくれた。私が昼ごはんを食べずにいるのを不思議がって、自分のご飯を分けてくれようとしたのだ。



正直めちゃくちゃ食べたかった。カレーをチャパティと共に頬張る彼らに混ざり、私も食事をしたくなった。しかし私は「俺も一応断食しているので、、、」とにこやかに断った。



もちろん、国にも地域によっても違うが、エジプトでラマダーン期間の日中、外国人がご飯を食べたり、タバコを吸うことは法律的にも、モラル的にもあまり問題はない。エジプト人の友人が教えてくれたのは、断食中に他の人が何か食べているのを見ると、自分を強くしたり、善行を積んだことになる(?)といった教えがあるそうだ。まあ、だとしてもおおっぴらに食事をするのは控えた方がいいのはいうまでもない。



もし私がムスリムであったなら、このカレーはさしずめ(かなり小さめの)宗教的な試練であり、乗り越えた私はほんのちょっぴりだけ天国へと近づいたのだと思う。しかし、私はムスリムではない。それどころかセム的一神教の信者ですらない。



素朴でアニミズム的な世界観で育った私は、否定するつもりなんてさらさらないけれど、どうも一神教に馴染めない。私にとって宗教とは、「お茶碗にも神様がいるんだよ。だから大切に扱ってね。」と幼少期に母に教えられた程度のものである。今では、ものに宿る神様の存在を積極的に認めることはないが、かといって否定することはできない。箸をぶん投げてる人がいたら、たとえ箸が傷ついてなくても注意するだろう。私にとっては、宗教とは何も「世界を創造した偉大な神に従属する」といった大層なものではない。もっともっと素朴なものだと思っている。



ふらっとなんとなく断食をすることを決めた私にとって、目の前に出されたカレーは天国への一歩ではなく、ただの料理だった。実際にムスリム以外が断食してもムスリムが得ることのできる恩恵は何一つ受けることができないとされている。当たり前だ。つまり、私がしている断食とムスリムがしている断食とでは本質的に全く異なっている。彼らは、断食を通して苦難を分かち合い、それを家族や仲間とのりこえ結束を強める。私にはそうした結束を強める仲間や家族はいない。ただただ孤独に断食を行い、孤独に空腹と戦うという、純粋な苦行がそこにはあった。




その日最後の授業は、よりにもよって食べ物についてだった。多分普段の数倍は集中して授業を受けた。食材や料理、調味用に関する語彙と、それを使った例文などを作った。




私が驚いたのは、先生たちが普段と全く変わらぬ様子で授業をしていたことだった。彼女たちは例外なくムスリムで、断食をしているはずである。しかしプロだからなのか、ムスリム歴が長いからなのかまたはその両方なのか普段通り授業が進んでいく。普段はコーヒー中毒(自分で言ってた)の先生もその日はコーヒーどころか水ものまず授業をしていた。



授業が全て終わってもまだ3時半だった。私はゆっくりとした足取りで家路についた。スイーツ屋さんのショウウィンドウに並べられた色とりどりのアイスクリームも注文する人がいないのか、まるで圧雪されたばかりのゲレンデのように、綺麗な状態でじっとイフタールを待っていた。普段なら香水屋、お菓子屋、土産物屋の客引きに声をかけられるが、この日はほとんど誰にも話しかけられなかった。唯一香水屋の客引きが生気のない顔で香水を勧めてきたが、こちらがいいや要りません的な微笑を浮かべると、すぐに定位置に戻っていた。



普段は普段は人だかりができるアイス屋


私は部屋がある建物の麓に到着すると5階分の階段を登り、やっとの思いで部屋にたどり着いた。





***



私はこの日、前々からジェイという名前の友人と夜ご飯を食べる約束していた。ジェイは人類学専攻でアラビア語を学んでいる。私と同じである。もう知り合ってだいぶ経つが、色々なことが重なりまだ一度もご飯に行けていなかったのだ。彼とは6時に大学で落ちあうことになっていた。大学までは普通に歩いて15分と言ったところなのでゆっくりと色々なものを写真に収めながら街を歩いた。私は写真が好きというよりむしろ、写真を撮るという行為自体に快感を覚える。構図を考え、色合いを考え、シャッタースピードとF値を決め、ピントをわざわざ手動で合わせ、ISOを調整していると、空腹がまぎれた。




歴史的なカフェも休業



大学に到着するともう6時になっていた。あたりは薄暗く、マグレブ(夕暮れ時のお祈りの時間)を予感させた。ジェイはカフェテリアでコーヒーを飲みながら勉強に励んでいた。膝には茶トラの猫が乗っていた。ジェイに話しかけると、もう勉強への集中力が切れていたのかそのまま周囲を片付け始め出発の準備をした。私たちは、私が個人的によく行くレストランを目指し歩き始めた。


「もしかして断食してるのか」
ジェイが私に聞いた。
「うん。人類学専攻だからね。なんとなくこの手のことは経験しとかないと気が済まない。」
と、答える。
「君ほどではないけど、僕もお腹が空いてるから、ご飯が楽しみだ。」


道中でデーツの箱を抱えた若い男に出会った。彼はわたしたちを視認するとその中から一人3個ずつデーツをくれた。どうやら、ムハンマドが断食を終えるとデーツから食べ始めたという伝承から、断食明けにデーツを配っていたようだった。私たちはありがたくそれを受け取り、イフタール(断食明け)の時間を待った。ジェイはデーツをくれた男に、乾燥いちじくをあげていた。優しい世界。



私たちは再び歩き出した。すると通行人が、断食の時間が終わったことを教えてくれた。私たちはもらったデーツをいただいた。もったりとした優しく甘い味がした。断食明けのデーツは体の隅々まで行き渡り、ぼーっとした頭を再び働かせた。私たちはレストランまでもう一息歩きはじめた。




通行人がくれたデーツ



レストランの赤い看板が見えた頃、一人の老人に声をかけられた。彼は私と同じくらいの身長で短い白髪にこれまた短い髭を蓄えていた。彼の黒目は左右非対称でギョロッとしていた。彼は私たちに流暢な英語で話しかけた。

「イブラヒムと申します。祈った後、みんなでご飯を食べる予定です。お二人もどうですか?もちろんモスクでの祈りは強制しません。」

お祈りとご飯の誘いだった。それも家庭料理。その提案はあまりにも魅力的だった。日本で宗教関係の人にご飯を奢られると碌なことにならない。怪しい宗教にしつこく勧誘されることになる。しかしエジプトでは9割がムスリムで、私のような人間はむしろ少数派。また今日は、ラマダンの最初の日。まさか何か悪い目になんて会わないだろうと考えた。さらに私たちを後押ししたのは、イブラヒムの3歩後ろにいた彼の娘である。18歳くらいの、大きな紫色のヒジャブを被っていた女の子がこちらを見ていた。どうやらイブラヒムの娘さんであるらしい。まさか若い女の子がいるような家で酷い目には合わないだろうと思い、ジェイと私は顔を見合わせ、頷いた。


「是非お願いします」




私たちはすぐ近くにあったモスクに靴を脱いで上がった。私はこの時人生で初めて観光地以外のモスクに入った。偶像崇拝が禁止ということもあり、モスクの内装は極めて簡素だった。床は全て赤いカーペットで覆われ、そこに黄色のラインが入っている。天井はそれほど高くなく、壁と天井は真っ白だった。もうすでにお祈りが始まってるようだったので、促されるまま私たちもカーペットのラインの上に並んだ。


全員がメッカの方向を向き横2列に並んでいる。その前にポツンと一人、白のガラベーヤに白い帽子を被ったイマーム(キリスト教で言うところの牧師ポジション)の人はマイクの前でお祈りの言葉を述べている。ひとしきり終わると今度は立礼、座礼、と続いていく。それに続きモスク内の人々も何かを唱えたり、礼をしたりしていた。イマームが放つアラビア語独特の美しい音韻に支えられた祈りの言葉はまるで甘露なお酒のように体に響き、陶酔を誘った。こうしてムスリムは信仰を強めていくのかと妙に納得した。次の瞬間、私は周りの人が礼をした時、反射的に礼をしてしまった。ここで色々なことを考えた。


私は自分の信じていない神様に対して頭を下げ、そして祈りを捧げた。それがたとえ反射的だとしても、その事実は揺るがない。私は必死に正当化する理由を考えた。


私はエジプトについたばかりのことを思い出した。私が初めて覚えたアラビア語は確か


ٱلْحَمْدُ لِلَّٰهِ (アル・ハンドゥリラー)‎


と言う言葉だった。これは「神に感謝」と言う意味だが、日本語の字面ほど堅苦しくなく、実に色々な場面で使うことができる。たとえば、アラビア語エジプト方言では、How are you に対してこの言葉を使うことができる。また、なにかいいことがあった時などにもこの言葉を使うことができる。また日本でいうところの「ごちそうさまでした」という意味でも使うことができる。


私はこの言葉を覚えたころ頻繁に、ありとあらゆる場面で使っていた。しかししばらく経った頃にある違和感に気づいた。当然のことながら私はムスリムでもなければ、セム的一神教の信者でもない。そんな私がこの表現を使うことが非常に不誠実なように思えたのだ。


この表現には以下のようなロジックがある。この世界はアッラーが創造し、人間もその創造物である。また全ての物理的な現象や日常的な偶然までもがアッラーの意思によってすでに決定されており、私たちはそれに従っているだけである。だから、常日頃からアッラーに感謝するし、何かいいことがあったらそれはアッラーのおかげである。食べ物を食べることができるのもアッラーのおかげであるため、私たち日本人が食材やその生産者、自然に対して「ごちそうさま」というのに対し、ムスリム的な世界観ではその全てを司るアッラーに対して感謝を捧げる。


私はイスラームについてあまり詳しくないため内容には大きな誤りが含まれているが大筋はこんな感じの世界観である。


しばらく禁止していたこの表現を再び使い始めたのは、少し考え方が変わったからだった。私自身の信仰はとりあえず置いておいて、このムスリムが90パーセント以上を占めるエジプトにおいて、人々の認識という観点から言えばエジプトには確かにアッラーがおり、それを中心とした生活が存在している。彼らの世界観ではアッラーの存在はもはや疑うようなものではなく確固たるものとしてそこに存在しているのである。私はそれを信じている人々が生産したものを、信じている人々から購入し、そして生活を成り立たせている。そのアッラーに対して私が感謝するのは何も不誠実でもおかしなことでもないように思えたのだ。


私はモスクで床に頭をつけながら、これから異教徒である私に対しても寛大にご飯を振舞ってくれる人への感謝と、その元となった「存在」に対して深く感謝した。しかし、個人的に感謝を伝えるならまだしもモスクといいう場で形だけとはいえムスリムの方々と同じように祈るのは失礼なのではないかと不安にもなった。私は脳内で必死に自分のした行為に対して正当化をしていたのだった。最後の方になると、お祈りの時間が早く終わることを祈った。


友人のジェイは、膝はついても頭は下げなかった。それがありなんだったら、私も無難にそうしておけばよかったと思った。



祈りを終えた私たちはモスクから外に出た。



後編に続く











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