なぜnoteを書いてるんだろうね
大学の同期が、なぜみんなはnoteを書いているの?とnoteで問うていたので、自分なりの答えを書けたらいいなと思う。もちろん世界は人間の知覚を遥かに超えるレベルで複雑で、そう簡単に因果を語ることはできない。世の中は一問一答では動いていないのだ。だからここに書くことは(と言うか普段私が書いていること全ては)私の主観において、そして私という人間の限られた見識のもと書かれている。だから今から書く「理由」と、「noteを書くという行為そのもの」には因果関係はない(≒あるかもしれないが不可知)である。めんどくさい前置きはおいておいて、本題に入ろう。
有名な『方丈記』の冒頭である。私はこの文章に出会って、今でも冒頭の文章は誦じれるほどに読み込んだ。当時の時代背景は平安時代が終わり動乱の時代へと突入していく。鴨長明自身も下鴨神社の禰宜になれるはずだったが、争いに巻き込まれそれはかなわなかった。その後もいくつか出世のチャンスがあったものの、結局ポストにつくことはできない。そして方丈庵と言う小さな家を山にたて、隠居をする。そうした悲哀と時代背景から生まれた日本の歴史に残る名文は、いつでも私の心を掴んで離さない。
よく聞く話だけど、全身の細胞は4年あるとほとんど全てが入れ替わってしまう。一人の人間の人生の中でさえも無常なのだ。そして人はいつか死ぬ。死んだら灰だけが残る。いや、それすらもいつかは消える。
だったら、何を記録しようが無駄に思える。どうせ人は死ぬ。何をやっても無駄じゃないか。そんな人生の中でnoteを書くことは無駄にすら思える。というか人生すら無駄のように思える。私は、ニヒリズムへと陥り、一時期は真剣に自死することすら考えた。毎日ぼんやりとベランダに出ては、飛び降りようか、でもこの高さからでは即死できないな、と思っていた。宗教に救いを求めたこともある。新約聖書を読み旧約聖書を読んだ。後になってコーランも読んでいる。他にも色々読んでみた。しかし、そこには自分にとって納得できるようなものは書かれていなかった。宗教を信じるにはあまりにも「合理的」だった。自分には来世も天国もないことをその時悟り、もう一度絶望した。
ニヒリズムから脱却できたのは、写真を撮り始めてからだったと思う。一瞬を切り取ること、一瞬を肯定すること、一瞬の美しさに惚れ惚れとすること、その一瞬を愛すこと。そこには、移ろいゆく世界の中で確かな価値を感じた。失われてしまう”から”意味がないのではなく、失われてしまう”からこそ”世界には価値があると思えた。なぜそんなことを思えたのかはまだうまく言語化することができていない。ただ、そこから人生を肯定することができるようになった。だとしたら、泥臭く這い回って、全力尽くして、気持ちよく死にたいと思うようになった。ナルシズムと言われたらそうかもしれないけど、それでも自分は自分の人生を肯定したい。人生全てを、その瞬間瞬間を肯定したい。それがnoteを書く理由の一つだと思う。
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と、まあなかなか壮大で気取ったことを書いてみましたが、別の側面もある。単純に、どうしても忘れたくないことがある時などはnoteを開くことが多い。友達からもらったアドバイス、同期から言われた素朴なひと言、教授の痛烈な指摘、など忘れてはいけないことがたくさんある。
もちろん
「本当に忘れたくないことなら、忘れないだろう。だから記録はしないことにしている」
と言う意見があるのはわかる。でも私は自分自身の記憶力を信用していないし、何より、レトリカルすぎて逆に本質を見失っているような気がする。人間は忘れる生き物で、むしろ忘れることで生きているという側面がある。ただその中で、自分の人生にとって大事なことも時に忘れてしまうことがあると私は思う。それをどこかに残しておくことは、価値があると思うし、他人の言葉で刺さったものを蔑ろにはしたくない。
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多分他にも色々考えられる理由はあると思う。世界は一問一答では動いていないからだ。ただ、自分がnoteを書く上で大切にしたいと思うことは、このnoteに書けたのではないかなと思う。
※冒頭の写真は、写真を撮り始めた日に撮影した写真。