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新潟は面影の町③~キーマンとの出逢い~

ズルッ…ズルズズゥッ……………。

店には私を除き、
テイクアウト待ちをしているおっさんが1名のみ。
特段うまくはない麺を業務的にすする音が店内に響いていた。
旅の根幹となるメインストリート、古町通り。
その途中に、この中国料理屋は位置していた。

新潟にきて私が「わっぱ飯」を食うと思うか?
あまり舐めないでいただきたい。
人とその暮らし、それをいちばん理解するには
大衆食堂か町中華と、昔から相場が決まっている。


怒りのキャプションに目を通すのは程々にしていただいたところで…
私はマーボー麺で腹を満たしながら"""ある男"""との約束の時間を待っていた。

男の正体についてはプライバシーの関係上、
詳細まで語り尽くすことはできないことをお許しいただきたい。
だが、一つ確かな事として、
男は20代にして国内外問わず都市の""答え""を熟知している到達者であり、
また同時に、私のタイムライン屈指のナメガキでもあった。

そんな彼とは、
相互になってから日は深くないものの、
日々のいいねにより十分すぎるほどに意志疎通していた。
今回は、私の方から勇気をだして声を掛け、会合まで至ったのである。

「さて、そろそろ時間か…」

男との集合時間が目前に迫っていた私は、
マーボー麺のぬるくなったスープを一気にまくった。
丼を顔からおろすと、カウンター横に、
数々の名刺がコルクボードに所狭しと貼られているのが目に入った。
おそらく、常連たちのものだろう。
JFEスチール関係の名刺があまりに多いためじっくり見ていると、店主から

『知り合いの名刺でもありましたか?』

と声を掛けられる。

「いえ…JFEが多かったので…それに私、こちらの人間ではなくて物珍しく。」

と返すと、店主はどこから来たのか、だとかを色々訪ねてきた。
そこに無神経さはなく、新潟という地に若者が一人でやって来るのを物珍しそうにしているような顔だった。

「へえ、まあ……静岡の西の方、浜松ですわ。」

私がそういうと、更に珍しく思ったようで『はあ』だとか『ふう』だとか言い、最後に
『新潟へ来てくれて有難う、楽しんでいってくれ』
を、そっくり同じフレーズで2回も言ってきた。

マーボー麺の代金は、ちょうどあったので小銭をカウンターに置き、店を後にした。

古町通りで、男を待つ。

火照った身体を古町通りの夜風に当てながら、
さきほど中国料理屋で掛けられた言葉を思い出す。
『新潟を楽しんでいってください』、か。
新潟は比較的、よそ者を受け入れる度量のある人間性の傾向にあるという。
(以前訪問した熊本は真逆であった)
これは、港町だからなのか、東京との関わりが密接だからか、厳しい風土故の心の暖かさなのか。

急いで答えを出そうとしていたとき、一人の男が私に近づいてきた。


キーマンとの出逢い 

『睡眠障害さんですか?』

男に声を掛けられる。ついに、きた。彼が。
この物語のキーマンであり、同時に私が惚れ込んでいるフォロワーでもあった。
彼は新潟を根城にしてからさほど日は深くないものの、新潟遠征をする上で誘わないことには私の計画は達成できないと踏んでいた。

「ッス……………はじめまして。」

いつもながらの挨拶はそこそこに、
彼に連れられ、古町を闊歩し始めた。
その土地に詳しい人間を携えると、自然と私の足取りも偉そうになってしまう。

新潟の古町は変わっている。
厳密にいうと、古町はかなり縦長の町であり、
歴史を紐解くと城下町によくある商売ごとにきっちり区分けをされている。
その中でも、古町は商店街の両サイドに細い路地が通っており、花町(芸者町)に起源をもつ。
彼を待つ間に予習済みだったが、縦長の古い料亭などが密に並んでおり、道中は芸者ともすれ違った。

新潟花町随一の高級料亭
鍋茶屋・光琳へ向かうのだろうか。


路地は細い上に、町の人口を考えるとその割に人通りは少なかったが、
実に私好みの町であり、歩みの調子も自然と上がっていった。

『ここスね…』
まずは、彼がよく顔をだすというシガー・バーに案内いただいた。

ふんだんに使われた大理石。
期待に胸とアソコが膨らむ。


扉を空けると、カウンターにはただならぬ雰囲気を醸し出す老人が一人で客の相手をしました。

『………いらっしゃい』

勧められるまま席に座ると、
男とマスターは親しい間柄を感じる話をはじめだした。
聞くと、マスターは80歳の手前。
日本バーテンダー協会の重鎮であり、北陸の夜の町でその名を知らぬ人はモグリだと言われるくらいの人間だった。

話が一段落すると、我々は酒を注文した。
私は、スモーキーなシングルモルトが好みなので、適当にマスターに見繕ってもらったあと、アードベクをロックでオーダーした。

ウイスキーをすこし舐めたところだったろうか、
男の勧めで、コイーバをいただく運びとなった。

天皇セットだ


もちろん、私にとって葉巻は始めてである。
ゲバラよろしく葉巻の一辺を裁断し、
片方をガスライターで入念に炙り、吸ってみる。
見識の浅さがゆえ、肺にがっつり入れて吸ってしまったが香ばしさと奥行きのある煙だった。

念願の、新潟にて「天皇になった」瞬間である。
(これは不敬罪きわまりない)
しかしあの瞬間の我々は、間違いなく皇族となっていた。

私は、コイーバから「ハバナ」を連想したため、
先日エアプレーンでハバナを脱し札幌まで迷い混んだ「一人の色男」のことを想うことにした。
彼は今、元気だろうか。何をしているだろうか。
男とTwitterでの出会いから今までついて、を話しながら、色男に関する思い出話をあたためた。

新潟の男と、かの「色男」は長年の相互関係であり、私が嫉妬するくらいには様々な思い出話を展開していった。

途中、我々が来る以前からバーにいた
貿易会社経営者のご婦人?と思われるお洒落婆と話を盛り上げたり、
途中はいってきた現役議員と歓談しては、名刺交換などをした。
政(まつりごと)に携わる人間と聞き思わずしかめ面をしてしまったが、
この""答えバー""を知っている時点で新潟の未来は彼に任せておけば安泰だと思えたし、
調子よく「静岡から住民票うつしときますね」と言っておいた。

酔いもすすんだ私は、
バーのマスター、つまるところ""答え爺""に、新潟の疑問についてありとあらゆることを尋ねた。
それに対し、マスターは喜んで私に話してくれた。

新潟は、かつて函館、横浜、神戸、長崎と肩を並べる五大港と呼ばれたそうだったが、今日はその""面影""もない町である。
その理由はどうやら、新潟が「政府の直轄領」ということに由来しているようだった。
分かりやすいところで言えば、佐土の金山がその最たる例。
政府の手が入りすぎたため、中心地には城が無ければ、自由な発展を阻害されたきたということがわかった。
その後の歴史を伺うと、やはり新潟は上越線由来で東京との繋がりが深く、私が待ちに待っていた「上野駅」のキーワードも出てきた。

 上野はオイラの心の駅だ
 挫けちゃならない人生が 
 あの日ここからはじまった
 (あぁ上野駅/伊沢八郎)

晴れが少なく、豪雪地帯の筆頭である天候は厳しく、当時、農家の跡取りとならなかった次男三男たちはこぞって東京へ職と安寧の地を求めたようだった。

この町の生き字引であるマスターの話に私は食い入った。
付け合わせの山椒の実はとても美味しかったのだが、ついつい話しに夢中になり、男との時間を忘れた。

酒も入り、話しも交え距離の縮まった私と男は、
名残惜しさを感じつつも、マスターと店内の客に別れを告げ、店を後にした。



間違いなく日本百名店のシガー・バーを出た我々はというと、
私のわがままで、新潟最古と噂されるスナックへと向かった。

彼から
『睡眠障害さんの歌を聞かずには帰れませんよ』
と言われてしまい、
幾らか気分が高揚していたことも白状しておこう。

スナックは古い雑居ビルの2階にあった。
黒いドアへと続く階段とその段々に敷かれたカーペットが名店であることを確信させた。

これでおよしよ そんなに強くないのに…

「ガチャ………」

重い扉を開けると、客の視線が我々に集まった。
柄の悪い格好をしている20代の男が、まさかこんな店へ。
そんな気持ちを代弁しているかのような視線だった。

残念なことに、この日、大ママは不在であったが
夜の人間としては歴の長いと自称する、40代ほどのホステスが私のテーブルについてくれた。

料金システムは予想より多少、上をいっていたがバブルさながらの極上の内装はそんなこと気にならないくらいに私の心を満たした。

極上お控えください。

私はホステスへ簡単に自己紹介し彼と煙草を何本か吸ったあと、
「一丁失礼します…」と断りをいれ、デンモクを操作した。

シガー・バーでハバナでの思い出話をしすぎたこともあり、
一曲目は「ハバナのひとよ/鶴岡雅義と東京ロマンチカ」からはじめた。

 粉雪舞い散るハバナの駅に(?)
 あぁ 一人残してきたけれど…
 忘れはしない 愛するひとよ
 (ハバナのひとよ/鶴岡雅義と東京ロマンチカ)

テイチクレコードの人間がいたら怒られそうだが、
残念、1967年の曲である。私の勝ちだ。

私と彼が見た目の割にジジイムーブばかりかましているからか、
ホステスは大層珍しげって色々な質問を投げ掛けてきた。
彼女もやはりこの仕事で長いだけあり、
自分の話と、相手への質問のバランスが実に上手く取れていた。
こういう夜の社交の場で、副業の昼職へのヒントを貰うことが多い。

対戦相手のホステス。
酒焼けしている声がいい。
しかし、桂銀淑と呼ぶにはまだまだだ。

私はホステスへも質問をする中で、
彼女が相当な「走り屋」であることを知った。
車でいく貧乏旅行が好きで、新潟から北海道までいったこと、また新潟から博多へいったときの話から、
彼女が奈良の大学へいったときの話へ聞き入った。

こうして話を聞くと、
私も歌で全国を回りたくなってきた。
そう、ご当地ソングの出番である。

まずは「港町ブルース/森進一」を歌ったあと、
続いてこの旅の目的の一つ、
「新潟ブルース/美川憲一」を歌った。

 思い出の夜は 霧が深かった
 今日も霧がふる 万代橋よ 
 別れの前に 抱きしめた 
 小さな肩よ ああ
 新潟は 新潟は 面影の町
 (新潟ブルース/美川憲一)

私なりに、想いを乗せて歌った。
ホステスも「美川っぽく歌うじゃん❗」と盛り上げきた。

そう、この遠征記録のメインテーマが、
この「面影の町」とは何か、を突き詰めることだ。
男から色々と新潟の話を聞いたり、シガー・バーの答え爺と話す中で、
その答えは何となくだが浮かんでいた。

それは、
「日本有数の大都市として発展した幻想の新潟」だ。

ここまで語ってきた通り、
現在の新潟の寂れ方には驚くものがある。

「港町」「広大な平野」「米どころ由来の豊富な人口」「信濃川という大河」「越後山脈からの豊富な水資源」「東京から満州へいくための最短ルート」

これだけのポテンシャルがあった。
それなのに、何故。
北陸が繁栄を極めたのは
「北前船(日本海側の港町を周遊しながら荷主自らが乗り込み商売をした商船)」全盛期のころ。 
今では信じられないが、割と昔でないころまで新潟は仙台と張っていた。
また同じ北陸の金沢も、古くは日本有数の大都市だったそうだ。

転換期は戦後。
復興に併せ、それまでの一次産業主体の産業構造が、第二次産業へと移る。
その頃には陸路も充実しており、北前船も廃止。
貿易港としてのポテンシャルは、港が浅い&歓楽街から離れているからか、
産業の舞台は完全に太平洋ベルトが中心となった。
厳しいことを言ってしまえば、北陸は見捨てられたのだ。

また、序章でも述べた「新潟交通局による路面電車の断念」も大きかったのだろう。

歓楽街と駅を繋ぐのは殿様商売の新潟バスのみ。
路面電車さえ通っていれば、それぞれの駅の周りで小規模ではあろうが商圏が発生し、人流も保たれていたであろう。

以上のことをまとめると、
「新潟ブルース」は、1967年の曲だが、
既にその未来を察知した作曲家が、やるせない気持ちを「面影」と歌詞に込め、市政を憂いていたことが予想される。

柳ヶ瀬ブルースといい、釧路の夜といい、
美川憲一の歌はなぜだろうか、染みる………。

(本人の人間性自体は否定しています)。

さて、一つの答えを導けたところでスナックでの話に戻る。

我々以外に1名だけいた客も帰ったこともあり、
我々は思い思いに好きな曲を入れ続けた。

途中、手持ち無沙汰となったもう1名のホステスも我々の宅に加わり、
もしなしてくれたが『私たちもいただいていいですか~』とビールの大瓶をドカドカ持ってきて我々の会計につけてきた。

それを誤魔化そうと、
矢継ぎ早に色々な曲を入れたのだが、
横暴な彼女たちの前では全てが無力だった。

もう、どうにでもなれ、という気持ちで歌った
「夜明けのブルース/五木ひろし」は、
しっかり 松山→古町、二番町→九番町、と替え歌して営業しておいた。

0時を回るころ、私は最後に回収し忘れていた
「国際キャバレー香港」の話をホステスに持ちかけた。

左手にみえる
イスラーム教のモスクのような建物がそれだ。


国際キャバレー香港とは、
かつて新潟に存在したグランドキャバレーである。
巨大なドーム上の異質な建物は、当時の人すらも魅了しただろうし、その歴史を聞いて帰りたかった。

残念ながら、
ホステスは詳しくその歴史を知らなかったが、
『ああ、いま結婚式場になっているあそこでしょう』と、その伝説は又聞きしているようだった。

ここの大ママであれば知っていただろうし、
ましてやシガー・バーのマスターであれば更に詳しかったろう。

答えは、次に新潟へ遠征したときのお楽しみとしておこう。


店のクローズ時間が過ぎるまで長居していた我々は、
ようやくチェックを宣言すると、やたらと高くついた会計を作り笑顔で払い終わり、店をでた。

ホステスからの見送りをいただいたあと、
我々はしばし、古町九番町の夜風にあたり、頭を冷やした。

10月の新潟。夜は一段と冷えた。
もしかすると、
もぬけの殻となった三越をみての
寂しさもあったからだろうか。


だいぶん、金をつかったなあ。
だが、この日、このタイミングで男と出会い、
答え店で金をつかわないと、得られない情報が確かにあった。

近頃はどうも、コスパ、コスパという言葉がつきまとう。
それだけ日本が貧乏な国になったということだし、
娯楽や出費の数が増えるのに給料が上がらないため仕方のないことなのだろうが、
一年に一回くらい「教科書に載っていない自分だけの答え」を見つけに、
「無意義な時間の過ごし方」をするべきだろうと思う。

それはきっと、息の詰まるような日常をすこし解放してくれるだろう。

そんなことを考えているうちに、
男と私は、各々のホテルへ向かう分岐点へ着いた。
「ほな、明朝9時に六曜館で。」
『ええ。』

私はボロボロの民宿へと戻った。
母の実家のベッドか?と思うくらいギイギイいうベッドに横たわって、今日の出来事をメモにまとめた。

かびくさい室内で身体が休まらなかった訳ではなかったが、
なぜか私は良く寝付けなかった。
正直に打ち明けると、一人の女性とLINEをしていたからである。

彼女が寝付くまではLINEを返そうとしていたが、
時計の短針が真下を向きはじめた頃合いには、既に私は力尽きようとしていた。

新潟の夜は明けていた。

 
第3章、完。

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