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立候補年齢引下げ訴訟を通じて
はじめに
最近、LEDGEの活動に関心を持ち始め、また、訴状等の訴訟資料が公開されていること(CALL4|社会課題の解決を目指す“公共訴訟”プラットフォーム)も相まって、自分なりの考えをまとめることとしている。以下では、またまた、前回に続き、立候補年齢引下げ訴訟で原告らが提出した訴状を基に批判的に、内容・構成面等の観点で感想を述べたい。
なぜ訴状なのか
2023年夏に提訴してから現在まで、訴訟自体はかなり進行している(11月20日時点で原告らは、第8準備書面まで提出している。一方で被告らは準備書面(2)まで提出している。)。
もちろん、これら全てについて吟味・批判することは可能ではある。それにも拘わらず、なぜ訴状にのみに着目するかといえば、原告らが一番有利に土俵設定できるのが訴状であり、(特に憲法訴訟である場合には)そこが原告代理人の力の見せ所であると考えるからである。
そして、その際には、法律家として、「書く」法文書は、常に名宛人を意識し、その者に宛てたメッセージであるということであり、訴訟代理人弁護士としては、裁判所に向けて裁判所がそれぞれの求める判決を書くことができるようにするために書くことが重要である(蟻川恒正「起案講義憲法第1回最高裁判決を読む」法学教室391号(2013)112頁、121頁)。
以上の観点で、訴状を対象として、どこまでロバスト(Robust)なのか吟味することとしたい。
何を主張したいか
今回の原告らの主張は、結局のところ、公職選挙法10条1項が、都道府県知事の被選挙年齢を満30歳以上(同4号)、都道府県議会議員及び市町村議会議員の被選挙権年齢を満25歳以上と定め(同3号及び同5号)、これらの年齢に達しない原告らの被選挙権を剥奪することが、憲法に反するという主張である(訴状9頁「第3」)。
以下、具体的な主張に入っていくのだが、訴状10頁において、「民主主義の起源は古代ギリシアに遡るとされる。・・・」として、歴史的背景を述べる。これ自体の内容はともかくとして(そもそも、それほど単純な話でもないと思われるが。)、この点についての言及は不要ではないか。
この記載が裁判所が判決を起案する際に参照するに値するとは思われない。この点において、上で述べた「「書く」法文書は、常に名宛人を意識し、その者に宛てたメッセージである」という視点に欠けていると思われる。
参照する違憲判決はどこまでロバストか
訴状では、基本的な憲法適合性における議論の土俵として、在外日本人選挙権訴訟(日本国外に在住する在外国民が国政選挙における選挙権の行使について、その全部または一部を認めないことが、日本国憲法に違反しているとして、当時の公職選挙法の違憲確認と損害賠償を求めた、日本における訴訟)を参照しているところ、当該訴訟において、最高裁は、以下のとおり、選挙権の性質及び当該権利侵害の憲法適合性の判断枠組みを示した(最大判平成17年9月14日民集59巻7号2087頁)。
「・・・・以上によれば,憲法は,国民主権の原理に基づき,両議院の議員の選挙において投票をすることによって国の政治に参加することができる権利を国民に対して固有の権利として保障しており,その趣旨を確たるものとするため,国民に対して投票をする機会を平等に保障しているものと解するのが相当である。
憲法の以上の趣旨にかんがみれば,自ら選挙の公正を害する行為をした者等の選挙権について一定の制限をすることは別として,国民の選挙権又はその行使を制限することは原則として許されず,国民の選挙権又はその行使を制限するためには,そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由がなければならないというべきである。そして,そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り,上記のやむを得ない事由があるとはいえず,このような事由なしに国民の選挙権の行使を制限することは,憲法15条1項及び3項,43条1項並びに44条ただし書に違反するといわざるを得ない。また,このことは,国が国民の選挙権の行使を可能にするための所要の措置を執らないという不作為によって国民が選挙権を行使することができない場合についても,同様である。」
上記判示において、最高裁は、選挙権本質論に関して、権利一元説に特有の「内在的制約」のフォーマットで、意図的に語っているのであり、しかもかかる断定が、その後の結論を左右しているように見受けられるとの指摘がなされている。しかし、「自ら選挙の公正を害する行為をした者等の選挙権について一定の制限をすることは別として」という点についてそのような内在的制約では正当化できないからこそ、公務の観点から正当化するほかなく、権利・公務二元説がともかくも、通説として支持されてきたのではないかと考えられるが、当該判示がどのような考慮のもと、断定的に述べた権利一元説と整合性を図っているのかは不明である。この整合性に関しては、「本件で問題とされている選挙権の行使に関していえば,選挙権が基本的人権の一つである参政権の行使という意味において個人的権利であることは疑いないものの,両議院の議員という国家の機関を選定する公務に集団的に参加するという公務的性格も有しており,純粋な個人的権利とは異なった側面を持っている」と述べている泉徳治裁判官のみがこの点に気がついている。(以上の分析について石川健治「ドグマーティクと反ドグマーティクのあいだ」石川健治ほか『憲法訴訟の十字路』(弘文堂、2019年)326頁以下。なお、327頁注39及び注40も参照)。
この点、訴状では、職業選択の自由まで持ち出していること(訴状22頁)を見るに、被選挙権を自由権として見ているが(自由人としての身分)、公務就任資格という身分(status)を見落としているように思われる(訴状24頁は整理ができないままにとりあえず持ち出していると思われる。なお、複数の権利が競合する場面における議論の整理は学説含め未成熟と思われるため、その点については述べない。)。
なお、公務に関する歴史的背景の一部として、筆者が学生時代にとっていた憲法学の講義メモを以下に記載する。ご参考となれば幸いである。
・・・(中略)選挙人という公務員をどう選抜するかという問題が起こる。ここで出てきたのがいわゆる財産要件である。財産要件は能力制の一種であると考える必要があるのである。ヨーロッパにおいては財産と教養が非常に伝統的な観念であった。これはノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)といわれる観念の一環であるが、財産がある人間は生活に余裕がある分自分を磨かなければならないのだという道徳がヨーロッパでは根強く存在していた。これはかつての家長の道徳であると説明することがあるが、いずれにしても富める者は生活に余裕がある分、遊んで暮らすのではなく自分を磨き、自己陶冶しなければならないのだという道徳が存在している。そうすると、財産がある人は公務に従事するだけの能力を備えているだろうという推定が働くことになる。そこで、まず財産能力という形で選挙人の資格を定めたのである。しかし、財産のない人にも能力はあるため、この財産要件が批判されるようになり、これが撤廃されることになる。それが財産要件ではなく成年要件で能力を測る普通選挙制である。成年に達していれば能力があるだろうと考えて選挙人の資格を判定するという設計に変わっていったのである。そして、この選挙人資格に対して承認を求める権利が発生するという構想になっている。これが本来の議論である。公務就任権が公務就任資格とその承認を求める権利の二元論になっていたように、選挙権の議論も二元論になるのである。つまり、選挙人の資格は成年を満たしていれば得ることができる。そのようにして公務就任資格を得て、その公務就任に対して人々は自分の利益に基づいて承認を求める権利を与えられるのである。公務の側面と権利の側面が二元的に並立するという説明になるのである。これが選挙権の二元説といわれるものである。
いずれにせよ、上記違憲判決については、その論理的脆弱性が指摘されているのであり、原告らの訴訟戦略上自身に有利な最高裁違憲判決をベースに考えることは重要であるが、一方で、依拠する最高裁違憲判決の論理的脆弱性を併せて抱えること及びそれに対する分析も必要であろう。
終着点は何処に
本訴状の内容に関する感想の最後として、原告らの年齢制限に関する主張の終着点の不明瞭さを示したい。
訴状25頁では小括として、以下の内容が述べられている。
平成17年最大判が選挙権侵害についての違憲審査基準の定立に際して考慮した要素は、いずれも被選挙権侵害においても妥当する。歴史的に被選挙権の制限が民主主義の後退をもたらしたことを踏まえ、国会に被選挙権剥奪の立法裁量を認めるべきではない。(太字は私において加筆)
このように、国会に立法裁量を認めるべきではないとすれば、原告らは、司法に対して、
本件で問題となっている立候補年齢について、何歳が適切か
の解の呈示を求めることになる。
しかし、そのような判断が可能なのだろうか。そもそも、訴状で示されているように、各国でばらつきがある立候補年齢について、日本の裁判所が一義的な解を示すことができるのか。
私には、それは荷が重すぎると思う。そもそも、歴史という通時的な背景のみならず、現代の各国法制度においてもばらつきがあるのであれば、司法がその中から「解」を示すことは困難であることは想像に難くない(訴状38頁でも、複数の選択肢が各国それぞれで選択されていることが明らかである。仮に原告らの主張が正当であれば、これらについても同様の主張をするのだろうか。)。
この点、
訴状30頁「政府は被選挙権年齢が高く設定された理由の合理性を説明できていない」との項目では、
「本来求められる説明は、25歳未満の人間は「公務に就くための相当な知識や経験」がなく、他方で25歳を超えるとこれらが身につくことを裏付ける、科学的根拠や知見である。」
としており、続いて、31頁で
「喫煙や飲酒の年齢制限であれば、肉体的な成長期にある若者に与えるダメージが相対的に大きいという医学的な根拠がある。小学校や中学校の入学年次を年齢により一律に決めている制度設計についても教育学に基づく統計的な知見がある。しかし、被選挙権年齢については、このような根拠が一つもない。25 歳未満であると一律で「相当な知識や豊富な経験」も「社会的経験に基づく思慮と分別」もないけれども、25 歳以上になると一律でこれらが身につく、というのは単なる思い込みと若者に対する偏見に過ぎない。」
と述べるが、この議論を突き進めていけば、例えば、①20歳ではだめなのだろうかという議論と、②18歳ではだめなのだろうか、というたった2つの選択肢についても、収拾がつかなくなる。原告らとして、この点は、どのように考えているのだろうか(科学的根拠や知見を提供しないことには、司法に判断を迫ることは、無理だろう。)。
また、訴状31頁では、
「政府が被選挙年齢の制限について正当化を試みるために述べる立法目的の正当性、すなわち、公務につくためには相当な知識や経験を必要としたり、社会的経験に基づく思慮と分別が必要とすること自体、実は国民主権原理やそれに基づく普通選挙の理念と真っ向から反する。」
とまで述べるが、そうすると、選挙権行使が可能となる年齢についても、同等の議論をすることにも繋がり得るが(なにせ「被選挙権と選挙権は表裏一体」なのだから)、それに対して、どのように自答するのだろうか(選ぶ側には流石に思慮や分別は必要ということであろうか。他方、選ばれる側が思慮と分別のある者かあるかどうかは選挙権者自身によって決められるべきで、年齢制限自体がおかしいというのであれば、原告らによって示されている諸外国の年齢制限にも同様の批判が妥当するが、この点についての整理はどのようになされているのであろうか。)。
以上からするに、
①年齢制限そのものがおかしいという主張
②25歳という年齢についていえば、他の制度からはさしあたり思慮と分別があると推定されている年齢(例えば18歳)がベースラインであり、それよりさらに25歳まで加重することに合理性がないこと
の主張方法が明瞭に区別されていないことが、権利侵害を強く主張するがあまりに、司法を縛っていないか(この点は、36頁「被選挙権以外は18歳から認められている」の主張の中でも①と②が混在されていることからも明らかである。)。
その結果「公職選挙法による被選挙権の年齢制限規定には合理性が全くない」という一見して非常にラディカルな主張に至ってしまっている。やはり、この点の整理・主張の終着点を明確にすべきだっただろう。
①が現実的ではない(原告らの主張の一貫性を損なう)とすると、②が主張の方向性であると思われるが、その際には、やはり、明示的に日本法における各種法制度から抽出される「思慮と分別」がついたと法体系全体でさしあたりベースラインとして考えられている年齢を呈示し、それからの更なる乖離についての合理性を問うことが訴状構成上も明確にすべきだったのではないか(なお、ベースラインの議論について、さしあたり、長谷部恭男『続・Interactive憲法』(有斐閣、2011年)38頁以下参照)。
最後に
法解釈論の生命線は論理構成にほかならない。
「権威や力ではなく、論理のみを頼みにした『方法』の息の長い追求こそが、日本法における「論理的なるもの」のメンテナンスにつながっていたことを、見逃すべきではない。筋の通らぬ議論の横行する今日、いかにして志を生産的に受け継ぐべきか、考え込むこと頼りである。Jó munkához idő kell.」(石川健治「「公理」のゆくえ」法学教室426号1頁(2016))
立候補年齢引下げ訴訟における原告・被告・裁判所がそのような志を生産的に受け継き、訴訟を進行させることを願ってやまない。
以 上