永青文庫と幽霊坂
永青文庫までの道中(というほど大袈裟なものではないですが)は、以下の記事で。
神田川の河畔から胸突坂を登り、永青文庫の敷地に足を踏み入れます。
鬱蒼と茂る木々。地面に落ちる濃い影。
永青文庫は、旧熊本藩主・細川家伝来の文物と、美術品の蒐集家であった第16代当主(旧侯爵)細川護立のコレクションを収めた美術館です。
わたしは今回、初訪問。
訪れたことのある方はご承知のとおり、建築や調度品も大変見応えのあるものです。
ただ、残念ながら、内部は撮影不可。自分の目で確かめるのみ、です。
この日は重要文化財「長谷雄草紙」の全巻公開を行っていました。
長谷雄草紙は「平安時代の漢学者・紀長谷雄にまつわる怪異な説話を題材にした絵巻」です。
簡単に要約しますと、朱雀門で鬼と双六勝負をすることになった長谷雄は、見事鬼を打ち負かし、鬼が掛けていた絶世の美女を手に入れます(ちなみに長谷雄はそのとき、全財産を掛けていました。すごい自信ですねー)。
ただし、鬼からは、美女には100日間触れてはいけないという条件が付けられており、長谷雄は一所懸命我慢するものの、100日を待たずに女を抱き寄せてしまい、するとみるみるうちに女の身体は溶け、水になって消えてしまう...…そういう物語です。
女が水になって溶ける描写は、宮﨑駿監督「君たちはどう生きるか」のワンシーンに通じるものがあって、
(元ネタかな?)
とも思いました。
あと、詞書が極めて端正で読みやすい書体で書かれていたのが印象的。現代人でもぎりぎり読める筆文字です(特にひらがな)。
国宝「蒙古襲来絵詞」の模本も面白かった。
元々は元寇を戦った竹崎季長が描かせた絵巻ですが、その後熊本藩士の家へと伝わり、現在は皇室に。新装なった皇居三の丸尚蔵館にて12月24日まで展示されています。
模本は江戸時代に熊本藩で作られたとのこと。鮮やかな色彩が目を引きました。また、緻密な考証を行って、欠損部分の描き足しも行われたそうです。
模本のほかにも、その下書きである白描画(線画)が展示されていて、こちらはさらに興味深い。
画面のそこかしこに細かく色指定が書き込まれているんですよ。さらに、絵が込み入っていて確認しづらい部分は、余白に別図が描かれていたり。
時代の前後関係は逆転してしまいますが、まるでアニメーションスタジオの制作現場を覗いているかのようでした。
さて、今は皇居にあると前述した原本。明治維新後に一度、細川家に買い取りの打診があり、お手頃価格でもあったらしいのですが、当時の当主がすげなく断ってしまったのだとか。まだ若く口を挟めなかった護立は、
「これほど貴重な品の価値がわからないとは!」
と憤ったと、解説にはありました(やや脚色)。国宝級の美術品は、滅多なことでは売りに出されませんからね。最初で最後かもしれないチャンスを逃したのがよほど悔しかったのでしょう。
永青文庫を出たのち、隣接する肥後細川庭園へ。
江戸時代に作られた池泉回遊式庭園です。幕末に細川家の江戸屋敷の一部となり、現在は文京区立の市民公園になっています。つい最近まで新江戸川公園と呼ばれていたようです。
目白台の高低差や斜面を覆う植生を活かした、凝った作りです。
前日に訪れた横浜の三溪園と比較してみると、どうでしょう。
肥後細川庭園も素敵なお庭ですが、やはり三溪園の広大さ、気宇壮大さが際立つ気がします。三溪園は、日本の庭園の中ではある意味、異色な立ち位置にあるように思えます。
岐阜の田舎から出てきて、入り婿になり、商売で財を成した原三渓は、華族階級からは、
「成り上がり者」
という視線で見られることも多かったのではないかと想像します。
それを乗り越えて豪壮美麗を発揮した精神力が、三溪園には宿っていると感じた次第。
肥後細川庭園をあとに目白台を登り返せば、そこは幽霊坂。
都内には幽霊坂と呼ばれるスポットがいくつもあって、街灯のなかった江戸時代、昼なお暗く、どこかじめっとした空気が漂う坂道を、多くの場合、そう名付けたのだろうと推量。
こうした場所は微妙な陰影が生まれやすいので、写真撮影向きと言えば言えそうです。
目白通りに向かって、坂の左側が目白台運動公園、右側は和敬塾の敷地になります。
男子学生寮である和敬塾には、かつて村上春樹さんも在寮したことがあり、小説「ノルウェイの森」の舞台になったと言われています。
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幽霊坂では会いませんでしたが、神田川の近くまで戻って来たら、不意に幽霊と出会いました。
(2023年11月29日訪問)