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鑑賞「細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム」展
久しぶりに仙台に行ってきた。
以前は、写真の展示やら、ちょっとした買い物やらと、しょっちゅう足を運んでいたのに、コロナ禍が起きて以来、もう何年も仙台にはご無沙汰していたのだ。
福島駅から新幹線なら20分、高速バスでも1時間半足らずで着くというのに。
自分の体調や、あれこれ慌ただしかったことは、理由としては、ある。それでもその間、東京や、ほかの地域へは、何度も出かけていたのだ。近すぎてかえって、
「まあ、次の機会にでも…」
といった気分が続いていたのは否めない。
バスを降り、冬青空の冷えた空気を吸い込みながら、せんだいメディアテークへと向かう。
「細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム」展
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寺崎英子という人のことを、ぼくはよくは知らない。
年譜などを読む限り、事実関係は以下のとおりだとわかる。
1941年(昭和16年)、旧満州生まれ。
帰国後は、鉛や亜鉛などを産出する巨大鉱山であった細倉鉱山(宮城県栗原市)の企業城下町で商店を営みながら暮らしていた。
幼少時に脊椎カリエスを患う。
1986年(昭和61年)、鉱山の閉山が発表されたのを機に、鉱山と町と人々を撮り始める。
2016年(平成28年)に急逝。生涯独身。
死後、遺されたネガフィルムがデジタルアーカイブ化され、写真展開催と写真集出版に繋がる。
寺崎英子の写真を世に出すに当たっては、仙台を拠点に活動する写真家・小岩勉氏が尽力された。
写真集には「寺崎英子さんには4度、会っている」と書かれている。小岩氏は、4度だけ会った寺崎英子に、フィルムと資料一式を預けられ、後事を託されたのだそうだ。
「これで寺崎英子という名前が入った写真集を作って」と言った。
英子さんは真顔だった。
小岩氏は半ば途方に暮れたらしい。
それはそうだろう。自身の写真家活動を続けながら、無名の作者の写真集を出版するという「無理難題」を背負うことになったのだ。
たとえそれが、極めて価値の高いものだとわかっていたにしても。
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寺崎英子の写真は、掛け値なしに素晴らしい。
視線と視点にブレがない。
構図は窮屈でもなければ、もちろん弛緩してもおらず、ただただ、彼女の目と心が見たものが、率直に切り取られている。ピントは合うべきものにぴたりと合わせられている。
決してドライではない。柔らかな叙情が春の風のようにふんわり漂ってくる。
被写体への深い愛着と、一方でそれを冷徹に見つめるもう一人の自分がいなければ、こうした写真は撮れるものではない。
しかも、生前は、ほとんどプリントをしていなかったというではないか!
寺崎英子は間違いなく「写真家」だと思う。
写真に残された彼女の表情・彼女の目は、どの一枚を取っても、まっすぐな強い輝きを放っている。
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会場には、実弟の正男さんがいらしていて、寺崎英子のことや往事の鉱山町の賑わいについて、熱心に説明してくださった。
ぼくが、
「とても上手いのに、まったく嫌みのない写真ですね」
と感想を伝えると、頷かれて、
「姉の写真は、美しく見せようと思っていないんです。わたしはずっと、姉の写真のどこがよいのかわからなかったけれど、写真展を開いてもらって、ほかの方の写真と一緒に展示する機会を得て、それがわかりました」
とおっしゃった。
「姉は脊椎カリエスで背が低く、その分、視線も低かったので、相手に警戒心を抱かれにくかったのでしょう」
とも。
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確かに、寺崎英子は、写真を美しく見せよう、飾ろうとはしていない。
そこにあるものを、そこにあるままに写している。そのことに価値がある。
しかし同時に、そこにはやはり、ある種の「美しさ」が秘められていると、ぼくは思う。
それはもしかしたら、「美しさ」とは別の言葉に置き換えるべきものかもしれないし、置き換えられないものかもしれない。
寺崎英子の写真を見返すと、(小岩氏のセレクトが入っているにせよ)彼女が何を撮り何を撮らないか、明確な意志のもと、シャッターを切っているのがわかる。
「写真集を作って」と願った彼女は、自分に作家性があることを密かに自覚していた、はずだ。
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寺崎英子は俳句と短歌も作っていた。
俳句とは自分で問題作って自分で答えをさがす様なものです。
短歌の方からはじめましたが短歌は難しいです。
H3年8月初入選ですが
「このころは天国とさえおもわるる嫁さぬ我いて老いし父母いて」
このうたが載らなければ短歌も俳句も作らなかったです
励みになりました作品です。
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内側と外側をじっと見つめていた人の息づかいを感じる。
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寺崎英子の先達と呼べる写真家に、増山たづ子がいる。
岐阜県の山奥、ダム湖に没することになった徳山村(当時。現在は揖斐川町)の姿をコンパクトカメラで記録し続けた人物で、1980年代には全国的にも知られる存在となった。
個人的な話題に脱線するが、ぼくの父方の祖父母は徳山村の出身で、父も戦時中に疎開暮らしをしていた。
自宅には父が購入した増山たづ子の写真集があった。ぼくもずいぶん前に一度だけ、湖に沈む前の徳山村跡を訪ねたことがある(すでに廃村になり、建築物はほとんど撤去されて草野原だったが)。
2013年(平成25年)から2014年(平成26年)にかけて、静岡県三島市のIZU PHOTO MUSEUMで増山たづ子の大規模な回顧展が開催され、少し遠かったものの、観覧に訪れた。
自らのルーツが永遠に失われたことは虚しく、もの悲しく、けれども、何万枚もの写真を遺してくれた人がいたことに、写真というメディアの持つ底力を感じた。
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正男氏は、ぼくに、
「姉の写真は東川賞(写真の町・北海道東川町が主催する写真賞)にもノミネートされたんです。受賞はしませんでしたが。でもまた、ノミネートされるかもしれない」
とつぶやかれた。
ぼくは、自分が写真家を名乗っていることも、かつてフォトフェスティバルに参加するために東川町を訪問したことがあることも、告げなかった。話そうかどうか迷いながら、結局喋らなかった。ここでぼくの身の上を披露したところで仕方がないと思ったから。不誠実な態度だったかもしれない。よくわからない。
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寺崎英子は写真界のスーパースターではない。芸術界がもてはやす使徒でもない。
だが、彼女の写真は、それを世に出した人々とともに、顕彰されるに値すると思う。
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正男氏が去ったのち、ぼくは会場の様子を写真に収めた。
光を駆使しつつ、ああ、美しく撮ろうとしている自分がいるな、と思いながら。
「細倉を記録する寺崎英子の遺したフィルム」展の会期は、1月22日(月)までです。
「細倉を記録した寺崎英子」ではなく「細倉を記録する寺崎英子」なのですね。未来へ。
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