ジュゼッペ・ヴェルディ
ヴェルディは彼のオペラが世界中に知られているように、
厳格で気難しいけれど物惜しみしない性格であることも
つとに知られています。
1835年から1900年の間に残された膨⼤な書簡から知られざる
ヴェルディの姿が浮かび上がってきます。
尊⼤さをもつ⼀⽅で教養にあふれ、現実や周囲の状況を
⾒据える眼⼒を持つカリスマ的⼈物。
当時のミラノは、若い⾳楽家を常に好意的に受け⼊れるわけでは
ありませんでした。
ヴェルディはミラノ⾳楽院の⼊試で、なんと落とされているのです!
この失敗は彼にとって忘れがたい経験となります。
後々ミラノに戻って、⼤成功をおさめるヴェルディですが、この時の苦い
経験から、周囲との衝突も多々起こったと言われています。
ヴェルディのスカラ座就任は、劇場⽀配⼈メレッリの時。
『ジャンヌ・ダルク』の上演に関し、ものすごい対⽴があったようで、
ヴェルディはこの事がキッカケで、今後スカラ座には⼆度と
⾜を踏み⼊れないと固く決⼼し、この誓いはなんと24年もの間
守られました。
その後1869年、ヴェルディ⾃⾝が提⽰した復帰の条件のもと、
ミラノに再度戻ってきます。
頑固なイメージのヴェルディですが、ミラノの⼈たちは
彼をこよなく愛し、ネクタイや帽⼦をヴェルディ⾵に着⽤したり、
レストランでは彼の名前にちなんだ料理(ヴェルディのリゾット等)が
考案されたりもしました。
また、晩年にはミラノに3000㎡の敷地を買い、そこに施設を建て、
80⼈から100⼈の⽼⾳楽家たちを受け⼊れるプロジェクトを考案、
1900年5⽉に書いた遺⾔状にも、彼の作品の著作権料から相当⾦額を
そのCasa di Riposo per Musicisti(⾳楽家のための憩いの家ー⽼⼈ホーム)の
運営資⾦にあてること、また⼊居者がヴェルディに恩義を感じたり
しないようにするため、施設の開設を彼の死後とするようにと
明記していたようです。
この事からもヴェルディの人となりが感じられますね。
ヴェルディは1901年1⽉27⽇の夜、ホテル・ミラン
(現Grand Hotel et De Milan)の105号室で数々の名作オペラが
⽣み出された机や彼の多くの調度品に囲まれて息を引き取りました。
87年の生涯でした。
葬儀は彼の遺⾔通り、夜明けに⾏われ、悲しみに沈んだミラノでは
記念墓地まで⻑い⾏列が続きました。
ヴェルディの遺体はまず妻ジュゼッピーナの隣に葬られましたが、
遺⾔に従い、⼆⼈の遺体は同年2⽉27⽇に「音楽家のための憩いの家」に
移されました。
そして1902年10⽉10⽇に「音楽家のための憩いの家」落成式が⾏われ、
ヴェルディ⽣誕100周年記念の1913年10⽉10⽇に建物の前の
ボナロッティ広場に彼の象が設置されました。
現在も、ここは老人ホームの基本的な奉仕活動を提供するのみならず、
「⾳楽を愛する⼈々に余⽣を過ごす場所を提供できることは
喜びである」というヴェルディの意志に沿って運営されています。