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夢遊病の女 ─マリア・マリブラン─3/4

3- アメリカでの成功


父マヌエルは、10作のオペラをレパートリーとして、ニューヨークへ旅立ちました。その中にはロッシーニの『セビリアの理髪師』や『オテロ』、『シンデレラ』と、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』のイタリア語での上演、さらに彼自身が作曲して、娘マリアの声に合わせて仕立てたコミック・オペラ『狡猾な恋人』や悲劇の『空の娘』などがありました。

ガルシア一座は1825年11月29日、パーク・シアターで『セビリアの理髪師』を上演し、見事な成功を収めます。
その後何ヶ月間にもわたり、驚異的な粘り強さと持久力で舞台に立ち続け、驚異的な成長を遂げつつあったニューヨークという新しい「金鉱」から最大限の利益を引き出そうとしました。

ニューヨークのパーク・シアター(1848年焼失)

それまで1819年、1822年、1823年と3回も続いた恐ろしい黄熱病の流行で多くの命が奪われていましたが、その恐怖を乗り越えたアメリカの人々は、新たな希望や活力をもたらしてくれるものを強く求めていた時期でもありました。
その一環として、イタリア・オペラの公演もまた、ニューヨークという大都市の活力を示す象徴となったのでしょう。そしてマヌエルは、この状況を徹底的に利用しようとしたのです。

しかし、幼少期から犠牲と忍耐の中で生きてきたマリアにとって、この忙しい日々を続けることは耐えがたいものになってきていました。
17歳の彼女が夢見ていたのは、舞台での成功よりもむしろ、恋愛や結婚、そして愛する人との穏やかな生活——この年頃の少女なら誰もが一度は考える''幸福''でした。

マリア・マリブラン

マリアはこの時期、家族や舞台という束縛から解き放たれ、目の前に現れた人を信じてしまう少し不安定な心の状態にあったのです。
そんな彼女の前に現れたのが、フランソワ・ウジェーヌ・ルイ・マリブランでした。

4- 間違った結婚


彼は1781年11月14日にパリで生まれ、当時43歳でした。マリアよりも26歳も年上の男性です。
フランソワ・マリブランはアメリカに帰化した銀行家と名乗り、一見すると裕福で立派な人物に見えました。
まだ若いマリアの目には、彼こそが知恵と富、そして安定と名誉を体現する存在として映ったのです。

フランソワ・マリブラン

フランソワ・マリブランは、マリアの前ではまるで真の貴族のように振る舞い、金銭など気にも留めないように見せかけていました。そして、華やかさと繊細な気遣いで、若いマリアを巧みに絡めとっていったのです。
それだけでなく母ホアキナもまた、彼の魅力に取り込まれ、娘の結婚相手としてふさわしいと考え始めていました。

マヌエルは当初、娘の反抗的な行動や考えに強く反対しましたが、妻と娘からのしつこい嘆願にとうとう折れてしまいます。なぜなら彼もまた、フランソワ・マリブランの罠にはまってしまったからです。
娘の持参金として5万フランを用意しました。

1826年3月23日、17歳の最後の日にマリアとフランソワの豪華な結婚式が、フランス領事も出席する中で執り行われました。新婚旅行先はナイアガラの滝です。

しかし、新婚旅行から戻ると、夢見がちで幸せの頂点だった花嫁を待っていたのは辛く苦しい現実でした。
億万長者であるはずの銀行家マリブランには、実は一銭の蓄えもなく、最悪の事態を免れるために、マリアの持参金で執拗な債権者たちを黙らせていたのです。花嫁の夢は脆くも崩れ去り、新婚夫婦はすぐに破産状態に陥りました。

ここで、思いがけずマリアの強靭な精神力が発揮されました。
それは、厳しくも完璧な父の教育の賜物でした。
あれほど家族と舞台の犠牲になるのを避けたいと願い、厳しい父から逃れ、音楽の世界から抜け出すために結婚したマリアでしたが、今や迷いも幻想もなく、彼女の人生に残された唯一の希望が、まさに演劇と歌、そして舞台にあることを悟ったのです。

マリア・マリブラン

生活費と自らの将来のための資金を蓄えるために、すぐに舞台に復帰し歌いました。迷いのない彼女の声はさらに張りと艶が出ています。

嘘つきな夫に愛想を尽かした彼女は、結婚式の翌年1827年10月、フランス行きの船に乗りこみました。
この苦い経験から彼女が得たものは、ただ一つ、新しい名字マリブランだけでしたが、皮肉なことにマリア・マリブランとして演劇史にその名を刻むことになるのです。

 5- パリでの再スタート


パリに帰ってきた若く美しいマリアは、歌に専念することを決意しました。そして、結婚などという幻想にはもう惑わされずに、彼女の人生の意味そのものとなったこの芸術に命をかけたのです。

アメリカから流れ着いた20歳のマリアは、短期間でパリの「プリマ・ドンナ」となりました。彼女のレパートリーは主にロッシーニ作品で、観客を魅了し、最も厳しい批評家たちをも唸らせ、パリの上流社会への扉を開いていきます。

マリア・マリブラン

彼女の名声は確固たるものとなり、パリ到着後わずか4年で彼女は「ヨーロッパの宝」となりました。イギリス、フランス、ベルギーの劇場がこぞって「神々しい声のマリア・マリブラン」を称賛します。

1828年末から翌年初めにかけて、彼女は偶然、一人の青年に目を留めました。なぜか心惹かれるものがあったのです。
ベルギーのヴァイオリニスト、シャルル・ド・ベリオでした。

シャルル・ド・ベリオ

1829年8月のある晩、ブリュッセル近郊のシメイ城に客人としてマリアは招かれ、そこでシャルルのヴァイオリン演奏を聴く機会を得ました。
そして演奏後、興奮気味に彼へ駆け寄ります。

「本当に素晴らしい!あなたの成功を心から嬉しく思っています!」
ヨーロッパで著名な歌手マリブランからの思いがけない称賛に驚いたシャルルは答えました。
「ありがとうございます。私もあなたのご厚意を嬉しく思います。」

この後、若い二人はすぐに恋に落ちました。
特にマリアにとって、この愛情は最後の瞬間まで変わることなく、純粋で情熱的なものでした。
1802年、ルーヴェンに生まれたシャルルは卓越したヴァイオリニストでした。そして、シャルルこそがマリアがその全てを捧げた唯一の愛だったのです。

マリアの芸術的なキャリアにおける最も輝かしい時期は、まさにシャルルとの恋愛の時期と一致しています。
この時期、彼女はすでに名声を得ていたロッシーニ作品に加え、ヴィンチェンツォ・ベッリーニの傑作の数々『カプレーティ家とモンテッキ家』のジュリエッタや『ノルマ』のノルマ、『夢遊病の女』のアミーナといった役をレパートリーに加えてさらに精力的に舞台で歌いました。

1832年にはローマ、ナポリ、ボローニャで歌い、翌1833年5月からはイギリスへと渡りました。マリアのキャリアが最終的に確立されたのは、その直後のことです。彼女はスカラ座との契約を結び、その当時、寛大な支援を行っていたヴィスコンティ・ディ・モドローネ公爵の庇護を受けることになりました。
契約内容は、1835年秋から1837年秋にかけて185回の公演を行うというもので、その報酬は45万フランに達しました。当時としては驚くべき金額です。さらに、スカラ座での契約を果たしながらも、マリアは余暇を利用してシニガッリア、ルッカ、ナポリ、ボローニャ、ヴェネツィアでも公演を行い、情熱的な歌声を響かせ続けました。

1835年9月23日。
ミラノにいたマリアは、そこでヴィンチェンツォ・ベッリーニの早すぎる死の知らせを受けました。
「私も・・・そう遠くないうちに、彼の後を追うことになるでしょう」
マリアは、偉大な作曲家の友人であったフローリモにそう書き送りました。そして、残念ながら、彼女の言葉は現実となってしまうのです。

(続)


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