歌詞探訪:大滝詠一『恋するカレン』
誰しも聞いていると何故か泣けてしまう歌の一つや二つはあると思う。多くの人が共感するかと思うが、私の場合音楽の教科書に載っていた『ドナドナ』というウクライナ民謡を聴いていると何故か泣けてくる。それから同じく音楽の教科書に載っていたビゼーの『ちいさな木の実』も泣けてくる。
大瀧詠一のアルバム『LONG VACATION』に収録されている『恋するカレン』もやはり泣ける歌の一つだ。1コーラスが終わり、転調して下のフレーズが流れ、そのあとの間奏へ続く。
このあとの間奏が涙腺崩壊ゾーン。誰も見ていなければ涙を流してしまうかもしれない。詞を書いたのは私のお慕いする松本隆さま。松本さんの詞は陽気な歌もいいんだけど、やはり失恋ソングが胸に刺さる。そしてこの歌は多くの人が共感して涙は流さないまでも泣けてしまう。
しかし、この歌は先に述べた2つの歌とは明らかに様相が異なる。『ドナドナ』に出て来る子牛は市場で売られ、やがて屠殺されてしまう。『小さな木の実』は幼くして父親に死に別れた少年の姿に哀愁を感じさせられる。いずれも「死」が見え隠れする。そして「死」は人間の力(ドナドナでは動物)では抗うことができない。
一方失恋は当然ながら「死」ほどは重みがない。その上『恋するカレン』では気になる箇所が存在する。まず、一つめ。
「やさしさ」は多くの女性が男性に求める典型的な要素。これを読む(聞く)限り「ぼく」は冴えないけれどやさしい男で、「彼」は見た目がよくて、もしかしたらお金も持っている男なのかなと、なんとなく匂わされる。そして最後にこう↓続く。
じんとくるいい歌だ。しかしながら…よ~く考えてみるとちょっとおかしい。「誰よりきみを愛していた」と「ぼく」は言っているけど、もしかしすると「ぼく」よりも「彼」のほうがカレンを愛しているかもしれない。おまけに「ぼく」は「彼」の魅力を「見せかけの魅力」と言っているけど、果たしてそうだろうか?
この辺は「彼」の言い分やカレンの言い分を聞いてみないことには何とも言えない。そして昔からお金持ちとか見た目のいい美男美女はわがままで高慢ちき、お金がなくて見映えが悪いやつは心優しく誠実…というステレオタイプの考え方が先入観としてはびこっている。
しかし実際は生活の苦労のない人たちは余裕があるせいか案外人柄がよかったりする。逆に生活の苦労に追われている人は、(もちろん中にはとても誠実な人もいるけれど、)心がすさんでいたりする。哀しいけど、それも一つの現実。
そんなわけで、「ぼく」の言っていることは本人の思い込みと言えなくもない。恋はいつでも ひとりよがり、「ぼく」はふられた哀しさを紛らわすために、「彼」は見せかけだけの男で、カレンは見せかけの魅力にだまされた哀しい女だと片付けている。
じゃあ、何故多くの人がこの歌に共感して、時に涙まで流すのか?
ひとつはこの歌が「ぼく」の目線で歌われているため、「彼」やカレンの気持ちが掴めない。それから、多くの人が…ひとりよがりの片思いの経験があるからじゃ…ないかな?
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