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発達障害とオランダの安楽死

この記事は前回の記事の続きとなる

昨日、安楽死問題について触れたのち、タイムラインに安楽死に関する記事が流れてきた。
実際の記事は英語であったが、同じ調査を参照する記事が日本語にあったのでそれを掲載しつつもう少し語りたいと思う。

論文の要旨としては、安楽死の中で特に自閉症、学習障害に関連するケースについて調査報告であった。
900件以上の公開された安楽死のケースから、明確に自閉症スペクトラムや学習障害が関連する39のケースを抜き出し、それぞれの安楽死に至った経緯をまとめて調査している。
ケースのうち3分の2が「不安や孤独、社会に居場所がない」といったことが原因でその選択をしたことがわかっている。
8件のケースにおいて自閉症や学習障害が大きく関係して、周囲の変化に対応できず、友人関係などを作ることに苦労していた。

自閉症と書字に対する学習障害を持つ自分にとって、これはより他人事でない事柄だ。
だが、同時に当事者であるからこそ、このケースにおける安楽死問題について、その恐ろしさと危険性について考えることができた。

自閉症も学習障害も確かに不治の病である。それは自分も間違いないと思う
しかし同時に、自閉症、学習障害であることは生きる能力がないと言うことではないとも知っている。

自分は障害に対して無知な人、無理解な環境はたくさん直面してきた。そうした環境の中で「自分は社会に馴染めない、孤立している」と感じたことは一度や二度ではない。
しかし、それは間違いだと明確に言える。自分がその時使っていた「社会」と言う言葉の意味するところは「学校」であったり、「グループ」であったり、社会ではあるが極々小さなコミュニティでしかなかった。
自分は日本の高校を卒業した後、ベトナム、ミャンマーのインターナショナルスクールへ通うことになり、今はオランダの大学で勉強をしている。
「日本の学校」という小さなコミュニティの中で「文字が書けない」ことが大きな障害となり「空気が読めない」からと排除されたと感じていた。
しかし、自分の障害など「文字が書けない」「空気が読めない」「落ち着きがない」「忘れっぽい」言葉にしてみればこんなもんである(実際にはもっとあるが)。

発達障害や学習障害は目に見えないため、理解されずらいが極論「目が悪い」のと同じようなものだ。メガネをかければそれだけで普通の人と同じように生活ができるし、盲導犬とそれに対する配慮のように社会からの受容があれば阻害されることはない。

障害は環境が生み出すものだ。光のない世界では目が見えないことは障害にならない。
障害とは「社会的障壁」なのだ。

記事には「三分の一のケースで、医者は本人の学習障害や自閉症が治療不可能であることを明確に指摘し、このことが改善の見込みがなく、したがって扶助死が患者にとって残された唯一の選択肢であると評価する際の重要事項であった」と書かれている。
しかし自閉症は治療するものではなくそれを受け入れてくれる環境を探すことの方が大事なことだと自分は思う。もちろん本人にあった訳ではないから全てを断定的に話すことはできないが「発達障害が治療不可能」であることが安楽死の理由となることは不当だと思う。

安楽死を担当する医者は「その患者を安楽死させるか否か」を判断する
オランダの法律によると「その患者の苦痛が耐え難く、尚且つ改善の見込みがない」ことを基準に安楽死を執行するのだが、安楽死を担当する医者は発達障害のスペシャリストではない。
況してやそんな人たちに対してまだまだ生きていいのだと肯定して、道を示すような人ではない。

踏み込んで邪推するなら、「不治の発達障害=改善の見込みがない」として発達障害の人間に関しては安楽死のためのハードルが自他にとって低くなると見ることもできる。
僕はこれは非常に危険で恐ろしいことだと思う。発達障害は本人はもちろん、理解できない周りにとっても疎ましいと感じられるケースも多いためより一層その懸念は強い。
迷惑になるから死ぬしかない、という同調圧力はオランダにもある。日本固有のものではない。
本来であれば「改善の見込み」はいくらでもあるはずの発達障害を持った人たちが生きる術や自分に合った環境を見つけることなく生きる権利を奪われてしまう。

生きる権利が保障されるのであれば、死ぬ権利もまた保障される。医療と社会が発達した今の社会において安楽死が求められるようになっている。
尊厳を守るための安楽死、しかし一方で社会的な動物である人間は「本人の生死の権利」だけで決断をすることができるのだろうか?

大学ののテストばかりに必死になっていた自分だが、今自分がいるオランダという国だからこそできることについて考えていきたいと思う

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