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ほんまそういうとこやぞウルトラマン(シン・ウルトラマン感想)

 タイトル通りシン・ウルトラマンの感想というか、幼稚園時代に抱えていたウルトラマンへの激重感情が蘇って正気を失った女のお気持ち表明文です。だいたい正気を失っているのでご注意ください。


 私がウルトラマンに出会ったのは三十年くらい前だろうか。当時私は幼稚園児で、お昼だか夕方にやっていた再放送のウルトラマンが最初に観た特撮だったと思う。
 再放送で観たウルトラマンの記憶はほとんど朧げで、どんなエピソードがあったかもほとんど覚えていない。ただ、ウルトラマンの立ち姿の美しさを、子供ながら漠然と感じていたような気がする。薄ぼんやりと思い出すウルトラマンを見ていたときの自分は、なぜだか洗濯かごのようなものの中に入っていて、口を半開きにして食い入るようにテレビの中のウルトラマンを見ていた。
 私とウルトラマンの接点はおそらくそれっきりである。その後の再放送の特撮は、どういうわけだかウルトラマンからウルトラマンタロウばかり繰り返し放送するようになった。そもそも、ウルトラマンも再放送であるから、最後まできっちり放送する親切心はなかったように思う。私が初めて観た話数もおそらく一話からではなかったし、テレビをつけたのも放送開始と同時ではなかったと思う。ウルトラマンが怪獣と戦っている真っ只中で、どうして彼が怪獣と戦うのか、それさえもよくわかっていなかった。でもなぜだか強く惹きつけられて、それから熱心にウルトラマンを見るようになった。なぜ人間がウルトラマンに変身するのか、彼はなぜ戦うのか、わからないまま観続けてある日唐突に放送は終わる。再び放送が始まったのはタロウだった。セブンもたまに、あったような気がする。

 我ながら不思議なもので、当時の私がウルトラマンタロウを観た感想が「子ども騙し」だったのだ。五つにも満たない、紛れもない子どもがはっきりそう思ったのだから不思議だ。ウルトラマンの続きが観たかったから、八つ当たりでそう思ったのではないと思う。確かにウルトラマンの続きは観たかったけれど、タロウがウルトラマンと同じ面白さだったらあっさりウルトラマンのことなんて忘れていただろう。何か違う、と子どもながら敏感に感じ取っていたようだった。そして実際、タロウは名前の通り子ども向けを意識したものであるらしかった。
 お母さんといっしょはなんの疑問も持たずに観るくせに、ウルトラマンを観た後だからかタロウにははっきりとそう思った。
 そうした漠然としたフラストレーションを抱えているとき、親が買ってくれたフィギュアのことを今でも覚えている。肩の部分がぐるぐると回るだけの簡素なフィギュアで、買ってくれたのはどういうわけだかウルトラの母だった。
 親としては唯一の女性のウルトラマンで、女児の私を気遣って選んでくれたのだと思う。でも私は「なんで普通の(要はプレーンなウルトラマン)じゃないの」と不満に思いながら、フィギュアの唯一稼働する肩をぐるぐると回していた気がする。

 私ははっきりと覚えていないが、私の母が言うにはものすごくウルトラマンが好きだったらしい。ウルトラマンの怪獣図鑑を持ち歩き、怪獣の名前をすらすらと誦じたという。しかし私としては、そんな覚えがほとんどない。確かにぼろぼろになった怪獣図鑑を一冊持っていたが、怪獣に関心を持った覚えはほとんどなかった。怪獣図鑑に合わせて載っていた歴代ウルトラマンを読んで、セブンやエースに思いを馳せるだけだった。でもそれも束の間で、その後に放送が始まったセーラームーンに興味関心は全て持っていかれた。ウルトラマンへの興味は、そこでぷっつりと途切れる。シン・ウルトラマンを観るまで、後続のシリーズをほとんど観ることはなかった。平成ライダーやラドンに熱を上げることがあったのに、である。今にして思えば、頑なにウルトラマン系列は避けていた。よく冗談めかして「幼稚園時代に死ぬほどハマったから、ティガやダイナでまた再燃するのが怖い」と言っていたのだが、それがあながち冗談ではなかったのをシン・ウルトラマンで思い知る。

 なんにも変わってない。

 シン・ウルトラマンを初めて観た時、ほぼ直感的にそう思った。ウルトラマンが三十年前と変わらずに令和に蘇ったのを喜んだのでは絶対になかった。ほとんど責めるような気持ちだった。幼稚園児の私では言語化できなかったことが、ようやく言葉になった。それが以下である。

「あなたってばいつもそう! 自分一人の犠牲で済むのならそれで良いと思って! 地べたから見送るだけの私の気持ちなんか、これっぽっちもわからないんでしょう! あなたが痛めつけられるところを黙って見ているしかない私の気持ちなんか、考えもしないんでしょう!」

 何かのヒーロー映画でヒロインが言ってそうな台詞である。それをまさか三十半ばにもなって銀幕の中の巨人に思うことがあるとは思わなかった。そして実際、そう思ったヒロインがいたらしい。

 レナちゃんとはひとまず3時間耐久でウルトラマンをぼろくそに言う会やりたい。散々ぼろくそに罵って最後「でも好き」って結論に至って、泣きながら肩を抱き合う地獄みたいな会を。

 銀幕で再び合間みえたウルトラマンは、斎藤工の外装を得て三十年前よりも悪い男になって戻ってきた。ウルトラマンは人類を愛している。これが情熱をもってしてなら滑稽でありつつも人類は報われただろうが、彼はどこまでも冷静なのである。理路整然と考えた上で、感情を荒げることなく静かに人類を愛している。そして人類の可能性を心から期待している。
 そこまで思われて、心を動かされない人類がいるだろうか。いやいない(断言)
 ここまで人の感情を揺さぶっておいて、彼は決して人類のために生きて帰る努力はしてくれないのだ。自分一人の犠牲で済むと判断したら、躊躇なくそれを選ぶ。見送る人類が抱いた感情は全て置き去りにして、あっさり犠牲に身を投じるのだ。

 ほんまそういうとこやぞウルトラマン

 ある意味、地球を訪れた外星人の中でもっとも残酷であるのがウルトラマンだった。ザラブもメフィラスも人類と向き合った結果、支配もしくは利用するという結論に至った。しかしウルトラマンだけ、人類に答えを出さなかった。作中で彼は「人間はわからないものだと理解した(うろ覚え)」のようなセリフを告げた通り、わからないことを受け入れている。ザラブ、メフィラスが人類のプライバシーゾーンに踏み込んだのに対し、ウルトラマンは徹底した線引きをした。それはウルトラマンなりの人類の尊厳を守るための行為であると同時に、人類とウルトラマンの間に埋めようのない溝を作るも同然だった。
 きっと想像もしないのだろう。人々の生活を守るために、甘んじて光線を受け止める姿を地上から見上げるしかできない人間の胸中など。頑張れと無責任に声をかけて、ありがとうウルトラマンと礼を言うことでしか返せるものがない人間の無力や虚無感をなんて、理解しえないのだろう。知っていたとしたって、ただ受け止めるだけだということは作中の言動でもう明らかになっている。
 だから彼は何も告げずにゼットンへ立ち向かう。あっけなく海に落ちるウルトラマンを見た人類が、何を思うかを置き去りにして。
 浅見女史が、ベッドに横たわる神永に「あなたはわかっていたのね。ゼットンは倒せないこと(うろ覚え)」と告げる。よく落ち着いたトーンで言えたと思う。私だったら胸ぐらを掴んで揺さぶりながら泣き叫んでたと思う。でもどうせ、泣こうが喚こうが神永の態度が変わることはないんだろうなぁ(鬱)

 人から劇中で「ウルトラマンは一度もゼア!って言わなかった」と聞いた時、胸がひしゃげるような思いがした。観劇中は急展開に次ぐ急展開でまったく気づかなかったけれど、思えばウルトラマンは一度だって声を上げなかった。カラータイマーもなく、音もなく体の色が変わるだけ。だから劇中では、ウルトラマンが攻撃により受けた痛みなど、動きで察するしかなかった。しかしその動きも、痛みを庇う仕草など無いに等しかった。
 ウルトラマンは本当に、コミュニケーションの大半が自己完結で、自分から発信することはほぼ無く、分かり合えないまま物語は終わる。

 相互理解において、ここまで無力感を味合わされるとつくづくラドンは良いなぁと思う。この感覚をざっくり言葉にすると「今カレ(ラドン)サイコ〜」になる。ラドンは絶対に人類の犠牲にはならないし、可能な限り生き残る。元祖・空の大怪獣では無念の死を遂げたが、ハリウッドデビューした先では2回も頭を下げて堂々と生き残った。結果ゴマすりクソバードというパワーワードが代名詞になりつつあるが、何事も生きてこそである。
 心からそう思うのだが、元カレ(ウルトラマン)の近況を高解像度で見せられた今、吹っ切れてラドン最高〜とは言っていられないのである。

 そう。恥を掻き捨ててシン・ウルトラマンの感想を忌憚なく率直に告げると、ほんと元カレ(ウルトラマン)の近況だった。それもただの元カレではなく、私が一方的にヒステリーを起こして別れを切り出した系である。少しは引き止められるかと思ったら、一言も引き止められず「それが君のためだ」とむしろ気遣われて別れた系だ。そう言われたらこっちはもう前言撤回などできないし、ぐちゃぐちゃな気持ちのまま別れるしかない。
 はっきり言って未練たらたらなわけだが、こっちも生活があるのでいつまでもぐずぐず泣いているわけにはいかない。だから私は30年かけて元カレへの未練を断ち切り、今カレにキャッキャしていたわけであるが、ここにきて再会する羽目になった。しかもそれだけでなく、自分が昔死ぬかと思うくらいヒステリーを起こして怒っていたことを、そっくりそのまま別の女にしていたのである。頭おかしなるわほんま。

 30年越しのクソ重感情がぶり返した結果、もはや思考はサノスである。ウルトラマンが自己犠牲を発揮しないよう、どうすれば人類の存在を初めから存在しなかったことにできるか、マジで考えている。でかくなれるもんならこっちがでかくなりたい。それで先に怪獣をぶちのめしてウルトラマンの存在意義を消したいと、心から思っている。

 もう少し正気を取り戻したら、元祖のウルトラマンを履修する旅に出ようと思います。幼稚園児の激重感情の再来に、私は耐えられるのか。


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