シン・ウルトラマンで学ぶ人間の情緒(シン・ウルトラマン感想・2)
以下の内容は、先日アップした怪文書が前提となっています。
別に読まなくてもいいですが、心境の変化がジェットコースターなのが体感できると思います。
この場を借りてささやかに釈明することが許されるなら、普段はここまで重い感情を推しに抱くことはないし、というかむしろ幼女(当時)にここまで思わせる方がどうかしていると思います。
今回はもはやお気持ち表明文ですらなく、自分と自分の中のウルトラマン像と対話しているだけです。
昨日、もう一度シン・ウルトラマンを観た。オタクらしく、好きな映画は何度も映画館で観るけれど、ワクワクこそすれ、言いようのない緊張と僅かな恐怖があったのは、この映画が初めてだった。喧嘩別れした直後の元カレの家に、忘れ物を引き取りに行くすごすごとした感覚に近いような気がする。一人でヒステリーを起こして(前回お気持ち表明文参照)自分のものは捨てろとまで啖呵を切ったのに、印鑑だとかそこそこ大事なものを忘れ、必要に迫られて仕方なしにまた顔を合わせなければならない感じだ。あと顔を見たら、いつも通りの様子に泣きたい気分になるんだろう、という確信にも似た予感もあったから、なおさらなのかもしれない。
2回目を観るときは、初めから終わりまでずっと泣いているのかと思ったけれど、案外そうではなかった。シン・ウルトラマンはシン・ゴジラとは随分と趣きが変わっていて、ウルトラマンが登場するシーン以外はわりとコメディタッチだ。初回はテンポの早さもあいまって、展開に追いつこうと話に追うのに夢中だった部分も、素直に楽しめた。その代わり、ウルトラマンが登場するシーンはだいたい泣いていたが。
浅見女史が初めてウルトラマンを見上げる際に「綺麗」と感嘆を漏らすシーンは同意しかない。三十年前の自分も、ウルトラマンの立ち姿の美しさに口を閉じるのも忘れて圧倒されたのを、ぼんやりと思い出した。
こうして改めてウルトラマンを見ると、姿勢の美しさに驚かされる。前傾姿勢も多いのに、背筋をピンと伸ばしているような正しい姿勢を見ているような気分になって、こちらも背筋が伸びる。骨格や体格が、地に足をつけたような安心感が常にある。スポーツはほぼしないのでよくわかっていないが、体幹が巨木のようにしっかり根付いているような印象を受ける。
ウルトラマンは見た目の美しさだけでなく、動作にも洗練された美しさがあるから、怪獣の光線をただ受け止めるだけのシーンだとかが、ひたすら胸が痛い。思えば、モスラだとか人間を守護する怪獣に対して、人間が「頑張れ」と声をかけるのが嫌いだった。今まさに暴力を振るわれている相手に、頑張れなどと言えるはずがない。でも、それしかかける言葉がないのは、三十年前からもうわかっていたような気がする。逃げろと叫んだところで、かの人が引き下がろうともしないのは、幼いながらに漠然と理解していた。
ウルトラマンと三十年ぶりに再会をして、自分は何に怒りを感じたのか。それは果たして本当に怒りだったのか。
シン・ウルトラマンが5月13日に公開されてから今日に至るまで、自分が抱いた感情とひたすら向き合うばかりの一週間だった。一週間の初めは、前回書いたお気持ち表明文のまま、一方的に別れを突きつけた元カレが昔と何も変わらなくてキレ散らかすような気分だった。三日四日経った頃、自分は何に怒りを覚えているのか不思議になった。かの人が三十年前と何も変わっていなかった。それがどうしてこんなにも不安を掻き立てられるのか。考えるうちに怒りめいたものが凪ぐと、あとにはめそめそしたものしか残らなかった。
かの人が原生人類を尊重するように、自分も尊重して欲しい。人と等しく自分を大事にして欲しい、たったそれだけのことをウルトラマンはしてくれないから、それが悲しかっただけだった。
ウルトラマンは禍特隊を仲間だと呼び表す。仲間として期待する。けれど痛みや苦しみは、決して分け与えてくれなかった。人類の困難は共に背負ってくれるのに、自身の苦しみを一人で抱え込む。仲間と告げたその口で、あえての沈黙を選ぶから、人類とウルトラマンの間にはいつも越えようのない溝があった。
「帰ってきて」
そのセリフの中に、神永だけでなくウルトラマンの男自身も入っていたことを、かの人は知っていただろうか。
ウルトラマンが人類を幼いと言い表すように、人間と融合を果たしたばかりのウルトラマンもまた人として余りに幼く見えた。命を失うこと、それを見送らなければならない人間がいること、それらを事実と認識はしても実体験を伴って理解をしていないから、死んでくれと頼んでいるも同然の作戦を責任感だけで背負い、全てを終えた後も神永に全てを明け渡してしまう。人として幼い彼が成長する時間も与えられず死地へ赴いたこと。それが私はスタッフロールが流れる間、嗚咽が込み上げて顔も上げられないほど苦しかった。
一週間前は「ウルトラマンってマジもんの酷い男」と声高に叫びたい気分だったが、今はしみじみと「本当に酷い男だなぁ…」と感じ入っている。サノス的な考えも少し変わった。ウルトラマンが自己犠牲を発揮しないよう人類の存在を初めからなかったことにしたかったが、今は世界規模の武装組織を結成してウルトラマンの存在意義を失くしてぇなぁと思っている。しかしそれを実現するにはよしんばアジア人初のアメリカ大統領になっても難しいだろうから、ペンは剣より強しという言葉を信じて啓蒙活動に努めたい。それで、現地人とろくにコミュニケーションも取らないうちに感情移入しまくって最終的に自己犠牲でカタをつけるような男が、いつ空から降ってきても良いように今から啓蒙していきたい所存である。
真面目に自分と向き合ったところで「ほんまそういうとこやぞ」に行き着いてしまう。
ウルトラマンが人間を「わからないもの」としながらも好きであったように、人間もわけもわからないまま空から現れた巨人が好きだった。好意は時に鏡写しのように返されることを、ウルトラマンは最後まで無自覚だったような気がする。彼が理解を経る前に、自身の死と神永の生還で本作は幕を閉じた。
こうして本作で情緒という情緒をぐしゃぐしゃにされた一個人としては、早いところ「帰ってきたシン・ウルトラマン」を制作してくれないと、人として幼いままのウルトラマンの死を、半永久的に繰り返し続ける羽目になってしまう。セルフバタフライエフェクトだ。マーベルの「What if…?」でドクターストレンジでさえ、ヒロインの死から逃れられず繰り返したことで闇堕ちしたのだから、行き着く先は一つだと思う。
これらをツイッターで呟いたら「帰ってきたウルトラマンは既に四十年前に制作されている」とのマジレスを受けたが、そういう話ではないのだ。三十年ぶりに再会したウルトラマンが斎藤工氏の外装をしていた。斎藤工氏によるウルトラマンと融合した神永のたまに見せる笑顔で気持ちがめちゃくちゃになったのだから、斎藤工氏のまま帰ってきたシン・ウルトラマンが始まらないと、私の地獄は終わりの始まりを迎えてくれないのである。
とはいえ、ひとまず心が落ち着いたら本家ウルトラマンの視聴マラソンを始めるつもりではいる。
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