【2021年冬コミ無配】ラドンライター

 

昨年の冬コミにて、わこさんのスペースにて無料配布させてもらった小説です。
 怪獣が実在する世界で怪獣ライターなる職業のSF(少し不思議)な話です。

ラドンライター

 ラドンライターの肩身が狭い。なぜならラドンをネタに記事を書いているからである。そうした人間がいるのだから当然、ゴジラライターもモスラライターもいる。しかし同じ怪獣を飯の種にしようと、ラドンライターはゴジラライターおよびモスラライターの間に天と地のほど差があった。もちろん、天はゴジラライターもしくはモスラライターで、ラドンライターは地である。ラドンはどの怪獣よりも高く速く飛ぶのに、そのライターの生活は地を這うのだ。
 なぜそんな事象が起こりうるのか。そこには人間から見るラドンという怪獣の立ち位置にあった。
 モスラは誰がなんと言おうと、平和の使者である。幼虫の間はうごうごと街を練り歩き、無自覚な破壊の限りを尽くそうと、一度羽化をしてゴジラの脅威から人々を守れば人類の守護神なのである。もはやモスラを神とするのは遠いインファント島だけの話ではない。日本特有の八百万の神の中に、モスラはいるも同然である。数多の宗教がそれぞれの神を据え置きつつ、様々な教義を提示して宗派をわけるように、人々は多かれ少なかれモスラを敬い愛した。ゴジラに平穏な日常を破壊され憎むことはあっても、モスラを憎むという人間ははほとんどいないだろう。いたとしてもよっぽどの虫嫌いであって、モスラの存在自体は許容しているに違いない。それはモスラの幼虫に破壊された街が、モスラが通った街として観光地、もしくは聖地と呼んでいるところからわかる。
 一方、ゴジラは人類にとって圧倒的な規模の災害であるが、別の角度から見ると人の業を突きつける存在でもある。核実験の影響により生まれたという生い立ちからして人間の罪、常に向き合わねばならない業の化身ある。そんな次第で、ゴジラを語る人間は圧倒的に知識人、著名人が多い。政府を批判する上でゴジラが持ち出されることも少なくない。ネットでは常に何かしらゴジラで討論が繰り広げられている。硬派な報道番組だと、必ずゴジラの特集を流すほどである。ラドンなど、たまにテレビで取り上げられたところで、牛が何頭食われただの、どこそこの街が破壊されたのだと、被害報告だけだ。
 ゴジラの魅力はそれだけではない。人々がゴジラの脅威を忘れた頃に、海よりヌッと現れて破壊の限りを尽くすのが良いのだろう。災害の記憶はどの世代にも色濃く残り、嫌でも人の罪を顧みることとなる。
 ゴジラにモスラ。この二大巨頭を前に、ラドンはどうだろうか。ラドンは別に、平和の使者ではない。一度はゴジラとあいまみえたことがあるが、あれは人類を守るというより単純に縄張りを荒らされた獣がとる威嚇である。ゴジラと相対する力があることを世間に知らしめたものの、ゴジラの息の根を止めるにははかなりの労力を要するとわかると、早々に根城の阿蘇山に蜻蛉返りしてしまった。おそらくゴジラが阿蘇山に攻め入らない限り、ラドンがゴジラと相対することはもうないのだろう。モスラのように人々の祈りを受けて日本に降り立ち、命を賭けて守ってはくれないのである。
 またラドンの生まれはゴジラと似通っているようで、ゴジラほど深刻ではない。核実験の放射能や火山ガスの高温下でプテラノドンが現代に復活したものがラドンとされているが、“されている”と言い表されるようにそうであると決定的なデータがあるわけではない。正直なところ、恐竜の卵がたまたま現代で孵ったくらいのイメージが強い。つまり、ラドンはゴジラほどの強いメッセージ性がラドンにはないのである。
 しかもラドンは、ゴジラが未曾有の災害をもたらしては最後、海に帰り死んだように静かにしているのに対し、年がら年中阿蘇山にいる。無限のエネルギーをその体に宿すゴジラや、何を栄養源にしているのか今一つ不明なモスラに対して、ラドンはきっちり食うのである。ラドンの食料は近隣の農場の牛から始まり、近くの海を泳ぐイルカまで、なかなか多岐に渡る。主食は畜産物に留めておけば良いものを、ラドンはわざわざ海まで飛んでイルカを踊り食いするものだから、おかげで動物愛護団体からは常にラドン駆除すべしと国へ嘆願が出ている。かの愛護団体においてラドンは愛護の対象ではないのである。人よりも頭の良いイルカを捕食する悪しき害獣に他ならないのだ。
 またラドンは飛ぶだけでソニックブームと呼ばれる凄まじい勢いの風を巻き起こすから、近隣の災害が尋常ではない。年に一、二度はどこそこの家屋がラドンのソニックブームにより倒壊したと、地方の新聞に載る。そのため動物愛護団体の極論は一般市民の願いとなり、決して暴論などと議論もされないのだった。
 そんな次第だが、ラドンは未だに駆除されずに済んでいる。しかしそれは国家の中枢にラドンに理解を示す重鎮がいるだとか、そんなことはなく、ラドン一頭を駆除するのに莫大な軍事費がかかるから出会った。ラドンはゴジラを一撃で仕留めることはできないが、戦闘機なら得意の急旋回で寸分違わず撃墜してみせるのだ。ラドン駆除のために戦闘機を三台出撃させたとして、一台に付き約二十億と仮定した場合、ラドンは根城に攻め入る敵と見做せば必ず迎撃する空の脅威であるから、三台ことごとく撃墜させるに違いない。六十億もの損失の上に、優秀な人材の尊い命が呆気なく散るのである。結果、ラドンが捕食するための牛を近隣に放し飼いにする方が、人名としても国防予算としても被害を最小限に済ませられるのであった。
 日本という国家において、ラドンはまさしく目の上のたんこぶであった。ラドンライターがラドンの記事を雑誌に載せれば、苦情が殺到するほど。
 本日の苦情の電話は、熊本で祖父の代から農業に勤しむ農家の大黒柱だった。電話口で容赦なくがなり立てるから詳細は掴めなかったが、あれのせいでうちの牛が何頭やられたと思っているんだと言っているのは聞き取れたから、おそらくラドンの記事に対して不謹慎だと言いたいのだろう。ラドンの猛威にさらされながら、日々酪農に勤しむ農家の皆さんには、ただ頭が下がるばかりである。はい、はい、誠に申し訳ありませんと繰り返すしかない。
 ラドンへの恨みが深いとこのまま一時間以上は怒鳴り散らされ続けるのだが、本日の電話主は言いたいことを言えば早々に満足するタイプの人間だったらしく、二度と書くなと捨て台詞を吐かれて電話を一方的に切られた。三時間、延々と埒のあかない話を聞かされるより、ありがたい対応である。
 受話器を置くなり思わずふぅとため息が出る。するとそれを聞きつけたように、横から声をかけられた。
「今日も長かったねぇ」
 いつの間にか隣のデスクに腰掛けていたのは編集長だった。クレームを受ける私を心配したのではないのは、デスクの後ろの棚にあるテレビをつけていることからわかる。編集長はテレビから視線をこちらに向けもしない。
「これでも短い方ですよ」
 そう返しながら私もテレビに目を向ける。テレビでは、東京湾近郊にゴジラの影を目撃したと報道している。しかしめぼしい破壊活動はなかったからか、映像はすぐにスタジオに切り替わったが、話題はすっかりゴジラだった。そしてモスラの守護が待たれる、とも。ラドンの話題を口にするものなど、当然いない。
 知らずぐぬぬと歯を食いしばっていたのだろう。編集長は私を一瞥すると失笑した。
「そういや君、なんでラドンが好きなんだっけ」
「凄く速く飛ぶからです」
 これを言うと大抵、少し驚いた間を置いたあとに失笑される。みんな、冗談と思うらしい。編集長に至っては、私の鉄板ネタだとさえ思っている節がある。その通りなのか、編集長は笑いながら続ける。
「女の子なのに変わってるねぇ。女の子はモスラの方がいいんじゃないかな」
 確かに、ゴジラライターは男女比率が圧倒的に男性が多く、モスラライターは打って変わって女性の比率が高い。ラドンライターはというと、そもそも人口が少ない。
「音速で飛ぶんですよ。かっこいいじゃないですか」
「音速とかっこいいはイコールになるかな」
 僕ラドンのことかっこいいと思ったことないよ、と編集長はラドンライターに対してこともなげに平然と暴言をくれたものだから、私は不遜にも編集長にYouTubeでラドンの急旋回をスローモーションで撮影に成功した動画を見ろと言って、社用のSNSを使ってURLを送りつけていた。

 私は一度だけ、実物のラドンを阿蘇山の麓で見たことがる。音速で飛ぶ巨大な生物に対し、見た、と言い表すのはあまり適切な表現ではないかもしれない。ラドンがこちらへ向かって飛んできたと思った時にはもう、大きな影に呑まれゴミのように地べたを転がっていた。ゴジラとはまた違った種類の、圧倒的な猛威だった。ゴジラがただひたすらに破壊を繰り返すのに対し、ラドンの場合は天災に見舞われたと言い表すのが近い。風も一歩間違えは人を殺しうるのだということを、ラドンは私に思い出させた。
 あれだけの距離を転がって、どこの骨も折らなかったのは奇跡だと思う。しかし、なんとか起き上がった私に五体満足のままである奇跡を喜ぶ余裕はなかった。ラドンが飛び去った後を目で追う。ラドンはもう遥か彼方へ飛び去り、青空にぽつんと浮かぶ小さな点でしか見えなかった。巨大な翼も、もう形らしい形など捉えられないのに、空に浮かぶ黒い点を見つめているうちに気がつくと私は泣いていた。
 飛び立つラドンは、ただひたすらに自由だった。破壊になんの意味も主張もない。ただあるがまま、そこにたまたま破壊が副産物的についてくるだけだった。これだけしがらみのない自由な生き物が、他にあるだろうかと思った。ゴジラは人類の罪の象徴、神の怒りにも等しい。モスラはただひたすら人のためにある。でもラドンは、人とまるで関わりがなかった。生まれ落ちて、今日を生きる。ただそれだけのことが、私の胸を強く打った。
 私はずっと苦しかった。巨大な怪獣たちが、あれほどの力を持っていながら人のしがらみに囚われていることが。そこから抜け出せず、破壊を繰り返す様が見ているだけで痛ましかった。
 けれどラドンは、人の思いも、人の罪も、まるで知らないように空を飛ぶ。数多の怪獣の中で、ラドンはただひたすらに自由だった。
 人のしがらみをたやすく振払い空を飛ぶ怪獣は、きっと死ぬ時さえ自由なのだろう。幾度めかしれないゴジラやモスラの死が、人の胸に多くのものを残したのに対し、ラドンはきっと何も残さない。自由に生き、自由に死ぬ。地球に生まれた生命らしく、静かな終わりを迎えるのだろう。

 私の想像は、思っていたよりずっと早く実証された。阿蘇山が噴火したのだ。それは政府が爆弾によって人為的に起こしたものだった。
 政府はラドンに食わせる畜産物を放牧させるよりも、将来的には安くなるラドン対策費をとっくに見出していたらしい。ラドンはあっけなく炎に巻かれ、空飛ぶのも虚しくヒラヒラと頼りなく舞い降り、瞬く間に溶岩に呑まれた。
 私はラドンがそうして死にゆく様を、テレビの液晶越しに見つめていた。

 私はラドンが死ぬ時、人の胸に何も残さないだろうと思っていたが、それはどうやら少し的外れなようだった。人はラドンの死を表立って悼まない代わりに、いなくなってせいせいしたと声高に叫ぶ者もいなかった。
 私がラドンの死を知らず怪獣誌に載せていた「ゴジラはなぜアンギラスばかり引き連れるのか」という、言い換えればラドンを引き連れればカイガンもメガロも容易く倒せただろうという批評に対し、その時初めて苦情は来なかった。
 鳴らない電話を前に、編集長が私に尋ねる。
「君、これからどうするの?」
 ラドンは死んだ。しかし、それで仕事がなくなったわけではない。まだしばらくはラドンの死も含めて書かねばならない記事があるだろう。それでも私は。
「ラドンライターはやめて、ラドン小説に転向しようかと思います」
「へぇ。何書くの」
「ラドンが異世界転生して無双し、魔王にラドンが取って代わる話です」
「ほぼ出オチだ」
 編集長は笑ったが、やめろとは言わなかった。止められたところでやめる気はさらさらないから、それで良い。
 空の大怪獣は、ただひたすらに自由だった。だから私も自由にラドンを想像しようと思う。それがあっけなく溶岩に呑まれて死んだ大怪獣の弔いになるか、わからない。でもいつか、溶岩の中から新たなラドンが生まれるかもしれない。それが本当に起きることなのか、銀幕の中のことか私にはわからないけれど、いつかまた会う気がするのだ。

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