祖父と僕だけで過ごした1時間
今日、祖父を看取った。96歳だった。
「おじいちゃんの容態が急変した」
朝6時に母からのメールを確認し、僕はすぐに祖父が入院する川崎市内の病院に向かった。
祖父はこれまで何度も「危ない」と言われたことがあったが、その度に持ち直してきた。僕は「今回も大丈夫ではないか」と心のどこかで祖父が元気になることを期待していた。
でも、病室で祖父の姿を目にし、僕は期待を消さざるを得なかった。素人目でも先が長くないことがわかった。正気がなく、目を閉じて苦しそうに呼吸をしているだけ。会話はとてもできない。
主治医の話では、祖父は脳出血を起こしていた。高齢のため手術はできず、そのまま経過を見る判断をした。それは、祖父の命が消える「その時」を待つことを意味していた。
先生からは「いつ何が起こってもおかしくない状況。亡くなった時に着せる洋服などを用意してください」と言われ、叔父と両親は祖父の家に服を取りに向かい、僕は祖父の病室にひとり残ることになった。
僕はおじいちゃんっ子だった。母は僕を産んだ後に体調を崩し、川崎市にある祖父母の家に長くいた。僕にとって川崎にある祖父母の家はまるで自分の家のように感じられて、その後成長してからもよく泊まりに行ったものだ。
祖父はまだ小さい僕と手をつなぎ、鹿島田や新川崎あたりをよく散歩してくれた。僕は電車が好きで、鹿島田駅前の踏切で南武線が通り過ぎるのを30分以上も眺めていた。
祖父との思い出で一番記憶に残っているのは、電車の終点まで行き、ラーメンを食べて帰ることだった。京浜東北線の「大宮」「大船」、横須賀線の「千葉」、東海道線の「熱海」、南武線の「立川」、京急線の「三崎口」あたりだ。
「川崎から1時間以上かけて行った駅で、ラーメンを食べて戻ってくるなんて、馬鹿げたことをしたね」
と僕は祖父に話しかけた。
僕はラーメンが食べたかったというよりは、祖父とできるだけ長い時間、電車の中で過ごしたかったのだ。景色を見て、初めて止まる駅のことを話す。そんな時間が幼いときの僕には楽しくて仕方がなかった。
そんな思い出話をしたり、息子の動画を耳元で再生したりした。目は開けなかったが、ひ孫の動画音声を耳にしたからか、祖父は体を少しだけ動かした。ちょうど昨年の今ぐらいに、僕は電車とバスで1時間半ほどかけて、息子を祖父のところへ連れて行ったことがある。抱っこして欲しかったからだ。
当時9か月の息子を祖父は意図しそうに抱っこして、「かわいい、かわいい」と喜んでくれた。
「おじいちゃん、ひ孫は毎日元気だよ。いたずらばかりしているよ」
そう語りかけ、思いがけずできた祖父と僕だけの時間を過ごしていた。
でもそんな穏やかな時間は突然終わりを迎えた。
祖父が急に苦しそうになり、呼吸が浅くなっていった。
「これは何かがおかしい!」
とっさに僕は判断し、ナースコールのボタンを押した。
その後すぐに、心電図モニターがけたたましい音を鳴らし始めた。祖父の心拍がどんどん少なくなっていき、危険を知らせ始めたのだ。
看護師さんたちが病室に飛んできて、あらゆる処置を施していた。僕は母に電話をしたが、病院到着まで10分ほどかかるという。
「おじいちゃん、みんながくるよ!頑張って!」
僕は祖父の体をさすり、必死に語り続けた。でも思いも虚しく、祖父の呼吸は止まり、心臓も動かなくなった。僕は思いがけず、祖父の最期を看取った。
叔父と両親がやってきたのは、祖父の命が消えた後だった。主治医が診察をし、死亡を確認した。午前11時26分、祖父は96歳で永眠した。
僕は人の死の瞬間に初めて立ち会った。心拍が止まると、泣き崩れるのかと思っていたが、実際は違った。不思議なことに、悲しい気持ちはほとんどわかず、どことなくホッとした気持ちや感謝が浮かんできたのだ。
「もう苦しまなくていい、楽になったんだね。よかったね、おじいちゃん。そして、僕が小さい頃からたくさんの愛情を注いでくれてありがとう。ゆっくり休んでね」
祖父にそう語りかけ、僕は病室を後にした。
大好きな祖父とともにした1時間。小さいころのように、二人っきりで過ごせて、僕は嬉しかった。たくさんの思い出が浮かんできて、祖父の愛情の深さを感じたんだ。
帰宅途中、祖父と幼い僕がたくさん歩いた川崎地下街「アゼリア」に寄った。ここを通って、いろんなところに行ったね。みんな素敵な思い出だよ。ありがとうおじいちゃん。